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「4321」 騒乱の時代 同時多発的に響く声 朝日新聞書評から

評者: 小澤英実 / 朝⽇新聞掲載:2025年01月18日
4 3 2 1 著者:ポール・オースター 出版社:新潮社 ジャンル:文学・評論

ISBN: 9784105217228
発売⽇: 2024/11/28
サイズ: 21×2cm/800p

「4321」 [著]ポール・オースター

 生まれた時に私たちにある無限の可能性は、成長とともに失われていく。偶然であれ必然であれ、無数の分岐を選んできた結果がいまのあなただ。でもあのとき、別の道を選んでいたら。ありえたかもしれない別の自分、別の人生の可能性に胸を衝(つ)かれたことはないだろうか?
 2段組み790ページ。昨年4月に逝去したポール・オースターの集大成とも目される一大巨編だ。1947年生まれの移民3世のユダヤ人少年アーチー・ファーガソンが激動の60年代を駆け抜けて大人になっていくさまを追う。訳者はあとがきに書いている。この本は「だいたいどんな本か」を、読む人一人ひとりが一ページずつ読み進むなかで発見してほしい本だ、と。そう、本書にはあっと驚く仕掛けがあり、語りすぎれば読む楽しみを大きく損ないかねないが、読み進めると、彼のありえたかもしれない別の人生が、同時並列でみえてくる。だがどうしてこの語り方、この厚み、そしてどうしてこの人生なのか。
 アーチーの足跡や思考を追いつつ、彼の執筆中の小説や観(み)た映画の筋、魅惑的な女性たちとの恋愛遍歴、そのうたかたの日々をひとつも語りこぼすまいとするような、ときに過剰なほど長く微視的な描写は、公民権運動、ベトナム戦争、学生運動に象徴される騒乱の時代とそこに生きた自分をまるごと記録しようとする、ドン・キホーテめいた果敢な挑戦にみえる。
 でも本書の一文一文は、驚くほどの読みやすさで一方向に流れつつ、一枚の写真に近い。その濃密な生の断片に埋もれるうち、アーチーの様々な人生は、読者の脳内で「ぐじゃぐじゃ」に混じりあい、そこで気づく。すべての「ありえたかもしれない自分」が「いまここにいる自分」と同時に生きていることを。
 本書に生々しく描かれた68年のコロンビア大の抗議運動の再来のような、ガザ侵攻に抗議する同大学生のデモのさなかにオースターは亡くなったが、国家への不信、深まる分断、絶望しかない世界に対する無力感、ここに描かれた60年代のアメリカもまた、いまの世界に並行している。
 ホイットマンの詩を書き継ぐように、この物語からは新しい「アメリカの歌が聞こえる」。ドストエフスキーの小説に鳴り響くにぎやかな人々の声に似た、人種や階層の違うあらゆるアメリカの同胞とアーチーたちの同時多発的な声が、オースターの写し取る風景のなか重なりあう。そこにいる誰しもが、自分の大切な人でありえたかもしれないという信念。それは人間への限りない憐(あわ)れみ、深い愛だ。
    ◇
Paul Auster 1947年生まれ。米コロンビア大で英文学などを専攻。85~86年の「ニューヨーク三部作」で小説家として注目される。『孤独の発明』『ムーン・パレス』『偶然の音楽』など著書多数。2024年死去。