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「生き続ける震災遺構 三陸の人びとの生活史より」岩手大准教授が出版 問われる「住民との関係」

津波の被災跡地に立つ「ど根性ポプラ」(中央)=岩手県大船渡市三陸町

 岩手大学准教授の坂口奈央さんは、東日本大震災の翌2012年、岩手の地元放送局のアナウンサーを退職し、研究の道に進んだ。それから10年余り。災害社会学者として三陸地方を生活史の視点で調査してきた。今年3月には「生き続ける震災遺構 三陸の人びとの生活史より」(ナカニシヤ出版)を発売。被災した建物などの「遺構」に住民がどのように向き合ってきたかを考察した。

 岩手県大槌町は、震災の遺構を保存するか撤去するかで町が二分され、注目を集めた。民宿の上に乗り上げた観光船はまゆり号や、当時の町長を含む職員ら多数が犠牲になった旧役場庁舎がそれだ。

 「震災前も人口1万人台の狭い町。町長が示す撤去の方針に、はっきりと自分の意見を言う人ばかりではなかった。多くが悩み、この十数年で心情が変化した人もいます。賛否の対立が激しくなると、口が重くなる人も増えました」

 「防災教育の聖地に」とメディアや研究者は願ったが、ことはそう簡単ではなかった。「撤去を求める人々の中には、過去の防災対策が失敗した象徴だという『恥』や悔恨の意識を抱く場合も。保存が正しい判断だとは言い切れないのが地元の実情でした」

 議論の末、はまゆり号は震災2カ月後、旧庁舎は19年に撤去され、民宿も21年に解体された。

 遺構としては残らなかった。だが、旧庁舎のケースでは「『わだち』が残った」。旧庁舎の撤去が近づくと、孫を連れてフェンスの隙間から旧役場庁舎を眺める人もいた。撤去後の跡地を覆ったシロツメクサには、訪れた多くの人が踏みつけることで「わだち」ができた。「たとえ遺構が撤去されても、人々の思いとともに残り、伝えられていくものが確実にある。むしろより想像力を喚起する場所になったとさえ言えるのかもしれません」

 坂口さんは震災当時、岩手めんこいテレビ(フジテレビ系)のアナウンサーだった。甚大な被害を受けた陸前高田や大船渡などの沿岸部を取材するうち、内陸部や首都圏との落差を感じたという。

 「誰のために、何のためにという報道の根本を見失ってはいけない。災害は必ず起きる。防災や減災にとどまらない災害復興学を確立したい」と一念発起。研究者として、小学校の学区よりも狭い公民館単位で県内の被災地に目を配り、「住まう人」の視点で調査してきた。

 「海沿いは感情が豊かで人間関係が『濃い』地域。被災した体験や遺構を語るその人の人生や暮らしそのものを聞き取ることになった」。調査を重ねると、ある遺構がその人にとってどんな意味を持つのかが浮かび上がってきたという。

 坂口さんは、人と遺構の密接な関係を示す例として、「ど根性ポプラ」を挙げる。大船渡市越喜来(おきらい)地区で津波に耐え抜いた1本のポプラの木を、地元の人たちがそう呼んだ。陸前高田・奇跡の一本松は枯れたが、ポプラは生きている。ポプラも頑張っているから自分も頑張る――。坂口さんの本は、ポプラの近くに暮らす住民の語りを紹介する。

 「なぜ生き残ったのか。どう生きればいいか。災害後を生きる自己を問い直し、誰かと語り合ううちに、遺構がその人の人生や地域社会の生きたシンボルになっていく」

 遺構はただ残せばいいわけではない。住民との関係や保存方法の創造性が問われるものだ。「重みがないバトンは受け継がれない。人が生きるための遺構、人とともに生き続ける遺構、人がつくり育てる遺構が残っていく」

 坂口さんは、ど根性ポプラを「おらほの(私たちの)遺構」だと語る住民を筆頭に「三陸の人たち全員が震災の語り部になっていけたら」と将来像を語る。「100人いたら100通りの人生と語りがある。津波が繰り返し押し寄せる三陸は、災害の体験や歴史を語る国内有数の伝承空間になっていくはず」(大内悟史)=朝日新聞2025年4月9日掲載