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「文学というゲームは終わった」時代に問い直す 批評家・福嶋亮大さん「世界文学のアーキテクチャ」

福嶋亮大さん

 各国の文学が互いに翻訳され、人類共通の「世界文学」へ――。こう構想したのはドイツの文豪ゲーテだった。現状はどうか。批評家で立教大教授の福嶋亮大(りょうた)さんは現代を「文学というゲームが終わった」時代だと語る。だが、だからこそ、世界の文学のアーキテクチャー(構造)を分析し、位置づけ直す意義があるという。

 プロデューサー・編集者役となった批評家の宇野常寛さんからの依頼に応じ、今年「世界文学のアーキテクチャ」(PLANETS刊)を発刊した。福嶋さんは「無理難題にうっかり乗せられて催眠術にかかり、書くと答えてしまった」と語るが、2年を費やし、がっぷり四つで取り組んだ。

 ゲーテが構想した、個々の国民文学を超越する人類共通の「世界文学」。海外文学の翻訳が盛んな現代日本で、それは実現したようにも思える。だが、福嶋さんの考えは違う。AI(人工知能)全盛のメディア状況下で「大文字の社会問題に取り組み、人間の内面を掘り下げて描くような文豪はいなくなり、文学というゲームは終わった」と厳しい認識を示す。

 ただ、こうも付け加える。「ゲームオーバーのときこそプレーヤーはゲームの制約から解放され、自由に論じられるのでは」。かつて柄谷行人は「日本近代文学の起源」(1980年)以降で、「日本語」「日本文学」「日本人のナショナリズムの形成」をセットで論じたが、福嶋さんは、日本文学の枠を超えた「世界文学」という大きな枠組みで、文学の意味を問い直そうと試みた。

 すぐれた文学は、複雑な世界を複雑なまま描こうとする。敵味方を区別するネット上の真偽不明の断片的情報ではなく、団結をもたらす物語や陰謀論でもない。福嶋さんは言う。「世界文学」とは「不確実な世界と共存するために18世紀にヨーロッパで開発されたプログラムのことではないか」。

 その代表作として挙げるのが、英文学の名作、デフォー「ロビンソン・クルーソー」(1719年)だ。

 孤島に流れ着いたロビンソンが島を開拓し、先住民を従え、秩序を築く。「物語は『新世界』を植民地として支配下に置く過程に重なる。と同時に『旧世界』の人間が、未知の世界に投げ出され、既存の価値観が揺らぐ状況を描いている」。西欧などの「旧世界」が、植民地などの「新世界」と出会い、「世界文学」が生まれた、というのだ。

 グローバル化と資本主義化が進み、小説が流通する世界市場が誕生した。世界文学も欧米を軸に展開する。福嶋さんの世界文学論は、新大陸侵略と大量虐殺を批判したラス・カサスの報告を視野に入れる一方で、19世紀米国文学の金字塔、メルヴィル「白鯨」(1851年)を頂点の一つと位置づける。

 「デフォーもメルヴィルも当時最高の知識人。個人の内面を描くのが近代小説だと思いがちだが、出発点にあったのは圧倒的に多様で理解しがたい世界をどう描くのかというのが大きな課題だった」

 「複雑な世界と向き合うための手がかり」だった世界文学。「世界は国家ありきではない。世界があって国家がありうる。世界が意識されて初めて『私』という個人へと関心が向かう」

 福嶋さんは、多くの国民が小説の読者となりナショナリズムの隆盛につながった、という従来の図式を「コロンブスの卵」のようにひっくり返した手応えを感じている。

 「追い詰められた絶体絶命の状況下でも理論を背負う意気込みを示す。文学青年や哲学青年のように背伸びしてみせたつもり」

 衰退期にも文学の構想する力、喚起する力を諦める必要はない。書き手の気概がにじみ出る「思想の書」としてじっくり読みたい。(大内悟史)=朝日新聞2025年6月18日掲載