

ビーナスといっても、古代ギリシャの女神ではない。旧石器時代と呼ばれたはるか昔、人類が石などでつくった女性小像のことだ。いにしえの「ビーナス像」に託された役割はなんだったのか。ホモ・サピエンスの心の奥底に潜む謎に迫った大著が完成した。
旧石器時代の女性小像はユーラシア大陸の各地に点在する普遍的な造形だ。19世紀以来、発見例は寒冷地を中心に320点を超えるという。世界史的にいえば後期旧石器時代末と重なる縄文時代草創期の日本列島では、細い線を彫り込んだ上黒岩岩陰遺跡(愛媛県)の石偶や粥見井尻(かゆみいじり)遺跡(三重県)の土偶などが知られる。
だが、それらを網羅する基礎資料はなかった、と春成秀爾・国立歴史民俗博物館名誉教授。「世界的な関心事なのにしっかりした実測図がそろっておらず、比較検討や議論が十分に行われてこなかったように思う」
そこで春成さんは世界各地の資料を渉猟し、「始原のヴィーナス 旧石器時代の女性象徴」(同成社)にまとめた。自ら手がけた豊富な図版や研究の足がかりとなる内外の参考文献も紹介、約400ページに及ぶ渾身(こんしん)の集大成となった。
ひと口に女性小像と言っても、その形態は多種多様だ。マンモスの牙に巨大な乳房やおしりを彫り込んだものもあれば、人間としての原形をとどめないほどデフォルメされた例も。陰部だけを誇張したり、陰毛の表現だけで女性であることを代弁させたり。“キャンバス”は石や牙のみならず、壁画として残る岩陰や洞窟も少なくない。
春成さんは考古学の型式学的手法を駆使し、姿形の変化や地域間の関係を検討。ヨーロッパやロシア平原などで多元的に生まれ、ときに伝播(でんぱ)を繰り返したとみる。一方、日本列島の類例に海外とのつながりをみるのは難しく、列島内で独自に発生したと考えるほかないと結論づけた。
では、その正体はなにか。地母神像や祖先の像などの説もあるが、春成さんは妊婦をかたどったものだと考える。ビーナスには手のひらに乗るほど小さな像が多い。それは握りしめる必要があるからで、「出産の無事を祈った護符ではなかったか」というのだ。
「寒冷な環境に進出した人類が子孫を残すためのアイテムであり、防寒着や住居とセットになった生存戦略の装置ととらえたい。生存率も低かっただろう当時、出産の無事を願う思いは世界各地にあったということでしょうね」(編集委員・中村俊介)=朝日新聞2025年7月9日掲載
