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「あれは何だったんだろう」書評 異次元へと連れ込む現代の神話

評者: 石井美保 / 朝⽇新聞掲載:2026年06月06日
あれは何だったんだろう (単行本) 著者:岸本 佐知子 出版社:筑摩書房 ジャンル:文学・評論

ISBN: 9784480815941
発売⽇: 2026/03/18
サイズ: 18.8×2.2cm/248p

「あれは何だったんだろう」 [著]岸本佐知子

 読んでいると、脳がじんわりとしびれてくる。くすくす笑いながら読み進めるうちに、周囲の空間が歪(ゆが)んでくる。軽いめまいか、トランスか。著者のエッセイにクラフト・エヴィング商會の絶妙な挿画が付された、癖になるシリーズの四作目。
 相変わらず、著者の日常は奇妙だ。しいたけ自販機の設置を勧める不審な男。真夜中に聞こえてくる死番虫(シバンムシ)のノック。遺失物受け取り所の奥にどこまでも続く階段。
 でも、ただヘンで可笑(おか)しいだけじゃなく、そこには人を誘い込んで堅気の道から外れさせるような、妖しい何かがある。常に世の中のモードからずれ、「システム」から弾(はじ)かれる著者。彼女の前で便器のリモコンは利かず、恋バナは語られず、ファックスは届かない。
 その先に現れるのは、ある種の神話的世界だ。奇妙な生きものたちが跋扈(ばっこ)し、事物の縮尺は伸び縮みし、自分も周りのものたちも、自由自在に変態(メタモルフォーゼ)する。
 でも、と思う。本書に出てくるイモムシやらシイタケやらと同じように、生きものは、世界は、本当はぐにゃぐにゃ伸び縮みしたり、どろどろに溶けてから変身したり、集合したりばらけたりして、いつも変態しているはず。かちっと定められたシステムに収まって、漏れ出さない自分なんてものこそが幻想なんじゃないか。
 この世とは別の縮尺、異種への変態、襲いくる災厄、教訓のなさ。本書は異次元につながる穴に読者を連れ込む、現代の神話である。
 何年か前に一度だけ、著者にお会いしたことがある。このシリーズについて伺ったところ、「あれは全部、本当に起こったこと」と言って、帽子の下で嫣然(えんぜん)と微笑(ほほえ)まれた。まさか、この本も。あの茸男(きのこおとこ)も、死番虫も、過去への階段も、全部実体験なのか。あり得る。
 そもそも私はあの時、本当にキシモトさんに会ったのだろうか。そういえばあの帽子、ちょっと茸っぽかった。まさか。 
    ◇
きしもと・さちこ 翻訳家。訳書にL・ベルリン『掃除婦のための手引き書』など。『ねにもつタイプ』で講談社エッセイ賞。