日記の形をした文学作品はいろいろある。古くは紀貫之「土佐日記」とか、現代なら小川洋子さんの「妊娠カレンダー」とか。でも大前粟生(あお)さんの新刊「プレイ・ダイアリー」(朝日新聞出版)は、それらのどれともちょっとちがう。
日記だから物語は日付で始まる。「1月9日 三田菜月のことは菜月ちゃんと呼ぶことにした」。菜月ちゃんって誰?と最初は戸惑うけれど、徐々にわかってくる。日記を書く「私」は無名の俳優で、「菜月ちゃん」は次に演じる役なのだと。
なぜ日記の形にしたんですか、と尋ねると「俳優さんの話を書こうと思ったのが先なんです」と大前さん。「役作りの流れを書くのに、日記の形がいいんじゃないかなって」
日付が進むにつれ、次第に「私」は菜月ちゃんと同化していく。日記のなかで、「私」と菜月ちゃんの区別がときにぼやける。私たちはふと顔をあげ、これは「私」の話なのか菜月ちゃんの話なのかと考えてしまう。
そしてこの本の勘どころは、俳優が役柄と同化していく状況が、作家が作中人物に没入していく様子と重なっていくことだ。
「私」の日記のはずなのに、ふと大前さんの日常がまぎれこむ。菜月ちゃんと「私」の境が溶け、「私」と大前さんの境が溶けて、物語は現実とフィクションのあいだを行き来する。
「俳優って変なことしてるなって思ってたんです。他人になるってどういうことかなって。でも、他人のことを考えるのはある意味作家も同じだなと思って」
「私」について読者にわかるのは、女性で、25歳で、大学を出たあと「ふらふらしている」ことくらい。
でも菜月ちゃんと「私」と大前さん、3人の境があいまいなこの日記を読んでいくと、いやおうなしに迫ってくるのだ。菜月ちゃんも「私」も、日々を生きる苦しさのようなものと懸命に闘っていることが。そしてこの作家が、争いの絶えないこの世界で生きるとはどういうことか、日々迷いながら書いていることが。
「戦争が起きまくってるのに、小説なんか書いてていいのかって思っちゃうんです。でも、自分にできることは書くことしかない。出口があるかわからないけど、何かを考え続けるという態度があることを、小説で示したいのかも」
この本には「私」の日記のほかに、短編がひとつ収録されている。「私」と大学の同期で、小説を書いている友人の日記。
「私は私に書けることを記録していく。そのなかで遠くのひとたちのことを考える」。日記にはそう記される。
本のタイトルの「プレイ」には、「演じる」(play)と「祈る」(pray)の意味がある。この本は作家の日記であり、祈りであり、ささやかな決意表明でもあるのだろう。(編集委員・柏崎歓)=朝日新聞2026年4月15日掲載