将棋棋士・糸谷哲郎さんの大切な本 哲学とともに 挑み続ける一手
将棋の糸谷哲郎九段(38)は異能の人である。藤井聡太名人(24)に挑戦した今春の名人戦七番勝負も記憶に新しい彼は高校3年で棋士になった後、大阪大学文学部に進学。西洋哲学を専攻し、同大学院文学研究科も修了した。棋界随一の多読家でもある。
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それこそハイデガーだって、会えば驚いたかもしれない。ジャパニーズチェスのトッププレーヤーが持つ英知に。糸谷九段の知的好奇心は並大抵ではないのだ。
なにしろ2歳で漢字を読み始めている。幼稚園児の頃からあらゆる書物に没入した。エンデの「はてしない物語」を手始めに、星新一、陳舜臣、宮城谷昌光、山岡荘八、菊池寛、阿刀田高……。ミステリー、本格SF、ホラーへと守備範囲も広げ、乱読してきた。
「小学生の時にドストエフスキーも読んでみましたが……やはり夏目漱石は読みやすいんだなあ、と思いました(笑)」
棋士になる夢を17歳でかなえても勝負の世界だけをひたすら走る選択はせず、1日14時間の猛勉強を課して大阪大に進学。名前の通りに西洋哲学を専攻した。棋士になった後で国公立大に進学した初めての例だった。
「プレーヤーなのでもちろん勝ちたいのですが、ひとつの人生を生きる人間でもあります。自分のライフタイムを考えた時、若いうちに学ぶことは非常に有意義で人生を豊かにすると思ったんです」
ニーチェ、キルケゴール……。哲学と向き合う中で「いちばん読んだ本であり、いちばん時間をかけてきた本」と語るのはマルティン・ハイデガーの「存在と時間」。卒論は「ハイデガー『存在と時間』における現存在と世界の関わり」だった。
「ハイデガーは毀誉褒貶(きよほうへん)が激しく、私生活でもいろいろ問題を起こしている。大哲学者と言われる一方で詐欺師と言われることもありますが、善悪を超えて魅力的な人でもあります」
取材準備で記者も「存在と時間」に挑戦するも正直難解で、どんな本か端的に教えて下さい……と水を向けるしかなかった。
「私たちは今、社会の中でどのように生きているか、そして死に向かって存在しているのかをメタ的(高次的、俯瞰〈ふかん〉的)に見ている本と言えます」
存在、人間、不安、そして死。普遍的な命題がつづられる。
「死への先駆を持った者こそが良心の呼び声に応えることができる、としていることは興味深いところです」
死への先駆? 良心の呼び声?
「あまりに世俗的な言い方になりますが、流されて生きている人間も死を自覚した時に自分の本当の価値観に立ち戻る、呼び覚まされるということです」
学ぶことは棋士としての自分にも影響を与えたのだろうか。
「哲学とは自分自身の思考を解体し、メタ的に認知することなので影響は受けます。(対局中も)今、どのような先入観を持ち、考え、悩んでいるかについて自分なりに論を立て、自分に対して反駁(はんばく)しています。対局は時間が少ないので考えすぎてもしょうがない、ということもありますけど」
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もう一冊について「最も『存在と時間』の対極にある本を」と相談すると「ニンジャスレイヤー」シリーズをセレクトした。
「もともとツイッター(現X)連載で読み始めましたが、第1話は『これまでのあらすじ』から始まり、作者や訳者が実在するかも分かりません。小説という形式を拡張する挑戦的な作品で、単なる読書体験に収まらないんです」
挑戦的、と聞いて思い出したのは糸谷九段が「斬新」の2文字を掲げて戦った名人戦だった。敗れたものの、斬新な指し手の数々はファンをおおいに魅了した。
「ニンジャスレイヤーは作品としての成功を経てもまだ新しい挑戦を続けている。挑戦を続けることは重要なんです」
棋士としての表明にも聞こえます、と伝えると、哲学者よろしく思慮深い笑顔で言った。
「ですかね……だといいんですけど」
(編集委員・北野新太)
「この問いの意味についての了解を、ふたたび目覚めさせる必要があるのである。」――。「存在」とは何を意味するのか。古代ギリシャから問われてきた主題を解き明かそうとした大著。1927年に刊行されたが、未完だった。光文社版は全8巻。
ニンジャに妻子を殺された主人公が近未来都市ネオサイタマを舞台に始める復讐(ふくしゅう)劇。2010年にツイッター(現X)連載がスタートし、12年にライトノベル化。note、コミック、アニメでも展開される。