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「KINDNESS(カインドネス)」 強さの奥底にある戸惑いと悩み 朝日新聞書評から 

評者: 井手英策 / 朝⽇新聞掲載:2026年10月10日
KINDNESS(カインドネス): 思いやりと優しさで世界を変える 著者:ジャシンダ・アーダーン 出版社:河出書房新社 ジャンル:文学・評論

ISBN: 9784309209500
発売⽇: 2026/07/28
サイズ: 14.1×19.6cm/528p

「KINDNESS(カインドネス)」 [著]ジャシンダ・アーダーン

 カバーとタイトルを見て、本書が一国の元宰相の回顧録だと誰が思うだろう。自然体の笑顔。ただ目元には、かすかな緊張がただよう。読み終えると、その印象の正体が少しわかった気がした。
 著者は、敬虔(けいけん)なモルモン教徒の家庭に生まれ、ニュージーランドの小さな町で育った。若い頃から弁論が得意だったことを除くと、本書では自らの強さはほぼ語られない。むしろ繰り返されるのは、「本当に自分でよいのか」という疑心暗鬼だ。
 連立交渉のさなか、バスルームで妊娠検査薬を握りしめる場面から物語は始まる。首相になるかもしれない。母になるかもしれない。現実のはざまで戸惑うひとりの人間の姿が印象に残る。
 37歳で首相に就任して以来、クライストチャーチのモスク銃撃、ホワイト島の噴火、新型コロナと未曽有のできごとに見舞われる。産休を取り、子育てにも悩む。訪問先で児童らが彼女の到着を待ちわびる。だが移動中に母が病に倒れ、腕の中には幼い娘がいる。何を選ぶのか。大小の決断のたびに心が揺れる指導者の姿は、あまりにも人間的だ。
 自分を語らない分、一つひとつの出会いの記憶が丁寧に描かれる。中学時代、教師が流したPeace Trainという曲を聴いて涙を隠した少女が、30年ほどのち、追悼の場で同じ歌を聴き、涙を恥じない首相になった。強さとは、弱さを消すことではない。著者はそう私たちに語りかける。
 計らわずに生き、権力の頂点に立つ。スキャンダルでも政治的敗北でもなく、己と向き合い、その座から降りる。彼女には、指導的立場さえ、人生の一コマなのだろう。
 邦題は「思いやりと優しさ」だが、原題は「強さのもうひとつのかたち(A Different Kind of Power)」。二つの言葉があざやかに表裏をなす。本を閉じる。指導者の資質を問う前に、お前はどんな人間でいたいのか。思わず、そうつぶやく自分がいた。
    ◇
Jacinda Ardern 1980年生まれ。2017年、第40代ニュージーランド首相に。子どもの貧困削減や気候変動などに焦点をあてた政策を打ち出す。23年、国を率いるための「十分な余力がない」と首相を辞任。
    ◇
神崎朗子訳