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文化と暴力 見えない他者への想像力回復を 清水知子

英ロンドンの中心部に設置されたバンクシーの作品=2026年5月1日、ウィル・ブラスウェイト撮影

 今年九月、ロンドンでバンクシー作の彫像を見た。スーツ姿の男が胸を張り、大きな旗を掲げている。一見、国家の英雄を称(たた)える記念像を思わせる。だが旗は男の顔をすっぽり覆い、片足は台座からはみ出し、今にも転落しそうだ。

 旗には国名も紋章もない。そこには自国も「敵国」も投影できる。この作品が四月末、一夜にして現れたウォータールー・プレイスには、エドワード七世像や戦争記念碑が並ぶ。帝国の記憶を刻んだ都市と、戦争が続く現在。そのはざまで、男は自ら掲げたものによって世界を見失っていた。

 今夏、欧州各地で、国旗を手にした何千もの人々が反移民を訴える映像がTikTokで拡散した。生成AIがつくった、実在しないデモだった。存在しない群衆が、存在する怒りを増幅する。それは、生活不安や政治不信に「ほら、みんなも怒っている」という架空の現実を与える。フェイクが現実を隠すのではなく、見たい現実を先回りして可視化するのだ。

不安や不信の鏡

 ナオミ・クライン『ドッペルゲンガー』(幾島幸子訳、岩波書店・4180円)が描くのは、こうした現実の二重化である。クラインは、陰謀論を広めるナオミ・ウルフと取り違えられた経験から、ウェルネス文化と極右の接近を追う。監視や巨大企業への不信には現実の根がある。だが構造の問題が陰謀にすり替えられると、わかりやすい敵が姿を現す。陰謀論と極右が結びついたこの世界を、クラインは「鏡の世界」と呼ぶ。それは、社会が放置してきた不安や不信の、歪(ゆが)んだ分身でもある。

 なぜ他者はこれほど容易に「移民」「外国人」「敵」という記号へ変わるのか。デヴィッド・グレーバー『官僚制のユートピア』(酒井隆史訳、以文社・3850円)は、権力の非対称性を「想像力」の問題として捉えた。弱い立場の者は相手の意向を読み取らねばならないが、強い側は相手を理解せずとも規則とカテゴリーで処理できる。権力とは、他者の事情を想像しなくても済む力なのだ。想像を免除された目には、他者は一枚のラベルで足りてしまう。複雑な生を単純なカテゴリーへ還元するところに、官僚制と暴力の接点がある。

幸福妨げる愛着

 一方、私たちを支えるものが、同時に視界を塞(ふさ)ぐこともある。ローレン・バーラント『残酷な楽観性』(岸まどか・ハーン小路恭子訳、花伝社・4180円)が描くのは、この愛着の逆説だ。努力すれば報われ、働けば暮らしは安定する。私たちはそんな「よき生」の約束に支えられてきた。だが、幸福へ導くはずのものへの愛着が、幸福を妨げもする。それでも手放せないのは、手放せば未来を支える足場まで崩れてしまうからだ。

 見たい現実を差し出す鏡。想像を免れる権力。手放せない愛着。そこにアルゴリズムと生成AIが加わり、欲望にかなう現実を絶えず供給する。現代の暴力は、文化や制度、感情の内部に入り込み、暴力とは見えない姿で作動している。文化は暴力を映すだけでなく、暴力を生む装置にもなる。だが異なる人々が出会う場をつくるのも文化だ。

 二〇二四年冬、韓国の非常戒厳に抗議する集会では、従来の組織旗に交じり、K―POP歌手の応援に使うペンライトや手製の旗が掲げられた。その光景を、韓国のメディア人類学者キム・キョンファは「メガホンとペンライト」と呼んだ。政治とファンダム、抗議と祝祭が交差し、人々はそれぞれの言葉を記した旗を手に広場に集った。必要なのは、異なる現実を生きる者どうしが、それでも同じ世界について争い、確かめ、交渉できる足場だ。旗の向こうにいる他者を、そしてまだ見ぬ別の世界を想像する力をどう取り戻すのか。暴力に抗する文化の可能性は、おそらくそこから始まる。=朝日新聞2026年10月10日掲載