熱狂・閑散、同じ建物に異空間 鈴木結生
フェルメールの名画『真珠の耳飾りの少女』が14年ぶりに来日! とアナウンスがなされたのは、ちょうどこの連載の企画が始まったのと同時期だったと記憶している。日本中の展覧会のスケジュールを探っていた私はすかさず「最初のチケットはこれで決まり!」とガッツポーズした。よもやこんな熱狂が起こるとは知らずに……
果たして、当展のチケットは人気アイドルのライブ顔負けの争奪戦と相成った。いやこれこそまさしくアイドルのライブそのものだったろう、日本中の人々があの名もなき「少女」を一目見たさに特設サイトに列をなしたのである。こういうお祭りは嫌いではない。が、こうなってくるともうまともに絵画を鑑賞するという気分ではなくなる。とにかくこの現象の渦中に身を置くことが目的で、私はチケットを手に入れた。
私が大阪中之島美術館に着いたのは金曜日の午後4時頃で、館内には既に長蛇の列が出来ていたが、聞き及ぶほどのストレスは感じなかった。展示内容も、フェルメール以外の作品のとってつけたような構成は流石にどうかとも思ったが、兎角(とかく)賛否を呼んでいたフェルメール全作品の原寸大複製はそのチープさがむしろお目当ての品のアウラを示す上では効果的だったと思う。実物の『少女』は確かに魅力的だった。例えば同じ作者の『天文学者』や『絵画芸術』といった大作と比べて、その何と不安定で小さく弱々しいこと。それなのに我々群衆の視線を真正面から引き受けて、ギリギリにかわしている、そのしなやかさたるや。
意外に思われるかもしれないが、この作品が今日におけるような評価を受け出したのはごく最近、1990年代に入ってからだそうだ。とりわけ99年に米国の作家トレイシー・シュヴァリエが発表した『真珠の耳飾りの少女』がベストセラーとなったことは、その知名度を揺るぎないものとした。一つの小説がそれだけ大きな文化的影響力を持ちうるというのは作家としては夢のある話(ここであえて付け加えておくなら、一時期忘れられかけたフェルメールの価値を確固としたのがプルーストの小説『失われた時を求めて』であったことも印象的だ)。
結局、待ちに待った彼女との対面はものの十秒で済んでしまった。「見る」というのは、「読む」に比べて実に呆気(あっけ)ない。だから何とかして絵を読みたいと思うけれど、あの少女自体は読まれるのを拒否していた(だからこそ、わざわざ小説家が自分の手で書き加えてやりたくなるのだ)。そのままグッズ売り場に並ぶのも何となく口惜しくて、何となく人波を避けて歩いていくと別の特別展を見つける。殆(ほとん)ど人の出入りがないその空間へ、まるで誘い込まれるかのように入場した。
カール・ヴァルザー。浅学ながらその名を初めて知った私は、そこで赤い本を読みながらこちらを見つめているもう一人の少女と出会うことになった。彼女の鋭い瞳は、私に読まれることを欲していたし、一緒に何かを読もうと誘ってもいた。《婦人の肖像》というその絵に私はすっかり魅せられ、軽く十分ほどその前に立ち尽くしていた。その間、私の後ろを通り過ぎた人は多分十人にも満たない。同じ建物の中にこうも異なる二つの空間が現出しうることに驚きつつも、私はすっかり忘れかけていた美術館に来る喜び、絵を読む楽しみを回復した。すなわち、自分の知らない人物ないし景色と出会い、それを自分しか知らない、と思い込めるまでとことん対話すること。何だかんだいって、それを求めて私はまた新たなチケットを買い求めるのだろう。=朝日新聞2026年10月11日掲載