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昭和天皇独白録の「シナリオ」との遭遇──渡辺延志『天皇はなぜ戦争を語ったのか』より「はじめに」を先行公開

記事:筑摩書房

箱を開け発見した当初の「戦責研究」。「大日本帝国政府」という文字が目をひいた。
箱を開け発見した当初の「戦責研究」。「大日本帝国政府」という文字が目をひいた。

吉祥寺で電車を降りるのは久しぶりのことだった。駅前は明るくにぎわいながら落ち着いたものを感じさせる。東京の住みたい街ランキングでいつも最上位にあるのも得心できる。行政区分でいうと東京都武蔵野市である。

ここから向かうのは成蹊大学である。

東京裁判(極東国際軍事裁判)の資料を私は調べてきた。最大の対象は国立公文書館に残る「戦争犯罪裁判関係資料」である。第二次世界大戦の終結後、日本国内外の戦犯法廷で罪に問われた人々の裁判の記録を後世に残そうと法務省が調査に乗り出したのは1955(昭和30)年のことで、1973年までの18年にわたり続けられた調査収集活動の成果であり、簿冊にして6003件という膨大な歴史の資料群である。国立公文書館に移管されたのは1999年度で、目録を整備したうえで2002年度に公開が始まった。

その中に昭和戦前期の政治や軍事をめぐる歴史の謎や空白に迫る手がかりが埋もれているのではと考え、気になる資料を探しては閲覧を重ねてきた。しだいに日本人弁護人の中に何人かのキーパーソンのいたことに気がついた。

東京帝国大学法学部の英米法の教授だった高柳賢三たかやなぎけんぞう18871967)はその一人だった。対米英戦争へと踏み出した東条英機内閣で企画院総裁をつとめ、A級戦犯として終身禁錮の判決を受けた陸軍中将鈴木貞一の弁護人であった。

だが、東京裁判の終結後、高柳は裁判について多くを語っていない。少なくとも私の知りたい疑問点について語っていない。何かないかと探すうちに国立国会図書館で『高柳文庫目録』(1968年)に出合った。高柳はその後、成蹊大学の学長をつとめており、遺志により蔵書が成蹊大学に寄贈された。12000冊にのぼる書籍類を大学図書館が整理し刊行した分厚い目録であった。

それを読むと、かなりの量の小冊子や資料などが未整理のまま残されていると記されていた。

何があるのだろう。見せてはもらえないだろうかと成蹊大学図書館にお願いすると、聞き入れてもらえたのだ。

吉祥寺駅から歩くこと約15分、到着したキャンパスでは天を突くようなケヤキの巨木の並木が迎えてくれた。武蔵野の面影というものなのだろう。

案内されたのは二号館の地下であった。図書館に収容しきれない書籍や未整理の資料の収蔵庫として使われているといい、高柳の残した資料は47個の段ボール箱に詰めて壁際に無造作に積み重ねられていた。

1956年に設置される憲法調査会の会長を高柳は長らくつとめており、その関連の資料や議事録が多いようであった。

箱には内容を示す表記があり、「極東軍事裁判」と分類された箱は二つあった。

開けると、二つの箱ともぎっしりと文書の類が詰まっていた。まとったほこりは歳月を、ぼろぼろと崩れるような紙のもろさは窮迫した当時の社会状況を伝えていた。新聞の切り抜きも多く、几帳面な性格と政治への関心の強さをうかがわせた。

そうした資料を一点ずつ確認することで、私はいくつかの気になる文書にたどりついた。

読み進めると、その中には驚くような記録や発言が眠っていた。戦争が終わってからまだ日も浅い、東京で戦犯裁判の準備が進められていた時期のことである。敗戦という現実に直面し、戦争の実態を突きつけられ、責任の所在を問われることになった日本の指導者たちが、何を考え、どう弁明しようとしたのか。その後の戦後という空間を通して、決して公然とは語られることのなかっただろう証言や記憶がそこには封じ込められていた。

渡辺延志『天皇はなぜ戦争を語ったのか──新資料で読み解く『独白録』の謎』(筑摩書房刊)
渡辺延志『天皇はなぜ戦争を語ったのか──新資料で読み解く『独白録』の謎』(筑摩書房刊)

『天皇はなぜ戦争を語ったのか──新資料で読み解く『独白録』の謎』目次

はじめに
第一章 「天皇の戦争責任に関する研究」
第二章 外務省法律顧問
第三章 米国大統領からの親電
第四章 『独白録』の出自と論点
第五章 盧溝橋以後の一二項目
第六章 内外法政研究会
第七章 想定の起訴状
第八章 弁護団の内情
おわりに
参考文献

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