大学を出て、東京で自動車のセールスマンをしていたころ、電車の中で若い女性がサンテグジュペリの『星の王子さま』を読んでいるのを見かけたんです。なんだか気になって、自分も読んでみたのが児童文学との出会いです。
学生のころ文学賞に応募したこともあったのですが、児童文学を本格的に書き始めたのは20代半ばで会社を辞めてから。広島市の実家に戻って、書道教室を手伝っていました。当時は経済成長のなかで育った子どもを指す「現代っ子」という言葉がはやり。生徒たちと気持ちが通じるか不安でしたが、自分の言葉がちゃんと届いているなと実感できたんです。
書道教室を手伝い始めて9年後の76年、雑誌に連載を始めた『ズッコケ三銃士』が、後の『ズッコケ三人組』シリーズになりました。
主人公のハチベエをはじめ、登場人物の多くは書道教室の子どもたちがモデル。それまでにない児童文学を書きたかったので、性格を思い切りデフォルメしてみました。その点では、今で言うライトノベルに近いかもしれません。当時は、灰谷健次郎さんの『兎(うさぎ)の眼(め)』(74年)のようなリアリズムの作品が高く評価され、キャラクターで読ませる作品は案外なかったのです。
被爆した広島から託したメッセージ
78年に『それいけズッコケ三人組』として単行本になりました。版元のポプラ社の幹部は「うちは戦後出版界の良心のつもりだったが」と渋い顔をしたと、担当編集者だった坂井宏先(ひろゆき)さんから聞きました。当時は子どもが読みたい本より、子どもに読ませたい本が重視されていたんですね。読者を広げてくれたのは「初めて夢中で本を読んだ」という子どもたちの口コミです。
ハチベエは活気のある商店街の八百屋の息子で、ハカセはたくさんいた団地住まいの少年の一人。70年代にはありふれていた風景の描写が、今では時代の記録になりました。
舞台のミドリ市は、故郷の広島市がモデルです。30巻を過ぎて題材に困った時も、戦争や原爆は扱いませんでした。三人組は平和だからこそ、のびのび自由に活躍できる。生みの親としては、戦争とは無縁でいさせてやりたかったのです。
私自身は3歳の時、自宅で被爆しています。縁側の戸袋の陰にいて、大きなけがはありませんでした。8月6日の夕方、爆心地の方角から、リヤカーに缶詰を満載した男の人が家の前を通りかかり、母に水を飲ませてくれるよう頼んできました。彼は「お礼に」とミカンの缶詰を置いていったのですが、それがやけどしそうなほど熱かったのを覚えています。
後から考えれば、その人は火事場泥棒だったのだと思います。人間のたくましさと言ったらいいのかわかりませんが、生きることはきれいごとばかりではありません。そんな体験が人生の原点にあるからか、人に対して「まあ、ええわ」が私の口癖になりました。
『花のズッコケ児童会長』(85年)では、「たくましい花山っ子を育てよう」というスローガンを掲げた優等生に対抗して、三人組が児童会長選に挑みます。その優等生が、がんばれない弱い子に我慢ができず、いじめてしまう性格だと知ったからです。
がんばりたくてもがんばれない子が、がんばることを強制されないのが民主主義。戦争の記憶が残る広島で、戦後の民主的教育を受けて育った私が三人組に託したメッセージです。(聞き手・上原佳久)=朝日新聞2016年1月19日掲載