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「中井久夫集6 1996-1998-いじめの政治学」書評 見えない隷従化が進む時代に

評者: 柄谷行人 / 朝⽇新聞掲載:2018年05月19日
中井久夫集 6 いじめの政治学 著者:中井 久夫 出版社:みすず書房 ジャンル:暮らし・実用

ISBN: 9784622085768
発売⽇: 2018/04/11
サイズ: 20cm/335p

中井久夫集6 1996-1998-いじめの政治学 [著]中井久夫

 本書は、精神科医中井久夫の全集の第六巻であり、一九九六年から九八年までに書かれた論文やエッセイが収録されている。私の知る限り、かつて精神医学に向かった人は、同時に文学に造詣(ぞうけい)の深い人が多かった。その中でも中井氏は際立っている。たとえば、本書にも、ギリシア語・フランス語の詩を翻訳してきた経験にもとづく論考が三つ載っている。また、九五年、阪神淡路大震災のあと、中井氏が地元で救援活動に取り組んだ記録、さらに被害者のPTSD(心的外傷後ストレス症候群)についての考察が載っている。それらは、必ずしも精神医学と直結するものではないが、同時に、精神医学なしにはありえない洞察に充(み)ちている。
 この巻の表題となった、「いじめの政治学」という論文についても同じことがいえる。これは比較的短いものだが、タイトルとするにふさわしい内容をもっている。重要なのは、それが「いじめの心理学」や「いじめの精神病理」を論じたものではなく、「いじめの政治学」を論じたものであるということだ。《いじめが権力に関係しているからには、必ず政治学がある。子どもにおけるいじめの政治学はなかなか精巧であって、子どもが政治的存在であるという面を持つことを教えてくれる》
 いじめはたんに「いじめる」ことではなく、人を全面的に「隷従化」するものである。それはつぎのような過程を通して実現される。第一に、いじめられる者の「孤立化」である。第二に、孤立した者をいっそう「無力化」する段階がある。この時期にはしばしば暴力がふるわれる。第三の段階は、いじめが第三者には見えなくなっていく「透明化」である。被害者は無理難題を押しつけられるが、孤立無援となって、反撃・脱出することもしなくなる。そして、自ら加害者側の末席に加わったりもする。また、この段階では、金銭の搾取がある。
 以上のような過程は、第三者には観察できない。いじめがあったことが判明するのは、被害者が自殺するときである。そして、ほとんどの場合、親も教師も驚くだけである。むろん、いじめから解放された者にもPTSDが残る。中井氏がこのような過程を見出(いだ)したのは、心的外傷に苦しむ患者の分析を通してであろうが、何よりも自身が子ども時代に体験したいじめを長年にわたって反芻(はんすう)してきたからだろう。「ここに書けば政治屋が悪用するのではないかとちょっと心配なほどである」と中井氏はいう。しかし、私は学校などの現場で、この論文を読んでほしいと思う。のみならず、これはまさに政治学としても読まれるべきである。人に見えないような「隷従化」が進行している時代だからだ。
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 なかい・ひさお 34年生まれ。精神科医。『カヴァフィス全詩集』の翻訳で読売文学賞、エッセー集『家族の深淵』で毎日出版文化賞。昨年から刊行が始まった中井久夫集は全11巻の予定。