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職場の理不尽な「あるある」がいっぱい 『わたし、定時で帰ります。』

文・中津海麻子、写真:斉藤順子

 朱野さんと言えば、東京駅で働く新人駅員の成長を描く『駅物語』、有人潜水調査船「しんかい6500」で日本初の女性パイロットが主人公の『海に降る』といった女性のお仕事小説で人気を博している。

 「特殊な職業を取り上げる小説は、どこかで読者が限られてしまうと感じていました。『働く』ことについて多くの人が共感できる物語が必ずあるはず。それを書けていないという思いがずっと自分の中にあったのです」

 そして生まれたのが、本作だ。

 舞台をIT企業に、就職氷河期に就職した女性を主人公に。実は、朱野さん自身が就職難の時期に過酷な就活を体験していた。なんとか入社できた会社では、終電まで残業することも休日出勤もいとわず、モーレツに働いた。今回はそんなバリバリ働く女子の話に――ところがそれに「待った」をかけた人がいた。ゆとり世代の編集担当者だ。

 「『死ぬ気で働く、倒れるまで働くという上の世代の働き方が理解できない。なぜそういう働き方するんですか?』と。私自身、なんでだろう? と立ち止まったんです」

 そこで思い切って、「死ぬほど働く」とは逆に振り、何が何でも定時には帰る東山結衣というキャラクターが生まれた。上司や同僚の嫌みにも動じず、仕事は業務時間内に終わらせて18時には会社を後にし、中華料理店のサービスタイムのビールに喉を鳴らす。

 「マイペースを貫いている人って会社に結構いて、そのうち周りも『あいつはしょうがない』と容認し始める。釣りバカ日誌のハマちゃんみたいな(笑)」

 結衣が定時に帰るには理由がある。父は家庭を顧みずに企業戦士として働き詰めだったし、恋人は働きすぎで倒れながらも自分より仕事を選んだ。最愛の人が命をかけるような働き方をしたことで苦しんだ過去があったのだ。その元カレ・種田晃太郎が今は同僚というややこしい状況の中、ブラック上司がクライアントからの無理難題を安請け合いしたことで、結衣は不本意ながらもチーフを引き受け、残業、休日出勤を余儀なくされていく。

 正義感の強い主人公が登場する会社小説では、理不尽な上司や同僚を痛快に懲らしめる勧善懲悪的な展開になりがち。結衣はしかし、それをしない。それぞれの人に対し、疑問は持ちながらも寄り添おうとする。

 「結衣は単に『命をかけて働くような人が牛耳るような会社で働きたくない』と自分本位なだけ。でも、理由はどうであれ、どうすれば同僚や部下の心を動かすことができるかを考えてる。だから相手を非難したり否定したりはしないんです」

 朱野さんはこの作品で、ある苦しみを吐露したという。

 第一話「皆勤賞の女」は、就活で苦労した同僚女性のエピソード。働きすぎて体を壊しながら、悲鳴のように口にする言葉がある。

 「私たち氷河期世代はね、何十社、何百社と応募して、内定をもらってもいつ取り消されるかとひやひやして、就職したらしたで、同期もいなくて、不安だねって言い合う仲間さえいなくて、解雇されたらどうしようって思うと休むのが怖くて」『わたし、定時で帰ります。』P41より

 これが、まさに朱野さん自身が9年間の会社員生活でずっと抱えていた思いだった。

 「就活で何社も落とされて『自分は無能な人間だ』と植え付けられてしまった。だから入社後は、無能ではないと証明するため、正社員で居続けるため、絶対に失敗は許されないと必死だった。そんなネガティブな働き方しかできなかったことを、『つらかった』とどこかで吐き出さないと、私は前に進めないと思っていました。この作品を通じてようやく言うことができた。会社員を辞めて10年近く経った今になって、ようやく」

 予算に見合わない無謀なプロジェクトを、結衣は「インパール作戦」になぞらえる。昭和19年、日本軍が敵の連合軍の拠点インパールを攻略するために決行された作戦で、動員された10万人の兵士のうち実に3万人もが命を落とした。今から25年ほど前にNHKが制作したドキュメンタリー番組の再放送をたまたま見た朱野さんは、この歴史に残る悲惨な出来事を物語に使おうと決める。

 「誰もがおかしい、無理だと思うことを、死ぬ気でやればできるという精神論で押し通した結果、失敗を招いた『組織論』として検証していたんです。組織や働き方は何も変わってないということが興味深かった」

 さらに、こう続ける。「会社も政府も手をこまぬいているわけでないのに長時間労働は一向に減らない。過労死も増えている。なんでだろうと薄く長く考えていた。今回の作品を書きながら、自分でもその答えを探していたような気がします」

 日々のニュースを騒がすセクハラやパワハラ。結衣の会社でも、組織で働いていれば多かれ少なかれ経験する理不尽な「あるある」が起きる。ちなみに朱野さんは会社員時代、パワハラもセクハラも受けたことはほとんどないとか。

 「私の陰湿な性格が表ににじみ出てたんでしょうねぇ(笑)。敵も抵抗できない人を選んでるんですよ」。そしてこう警鐘を鳴らす。「働き方も、セクハラやパワハラについても、入社したころの常識で固まってしまっている人が多い。会社で残業ばかりしていると人間関係が狭くなって、その常識が変わらないままどんどん醸成されていってしまい、ますます変化に弱くなる」

 多くのサラリーマンは、結衣のように自分本位に働きたいと思う半面、実際は晃太郎のように「会社のため」と身を粉にして長時間労働にも耐えている。

 「どちらが正しい、間違ってるじゃなく、一人の人間の中にどちらもが両輪のようにあって、バランスをとりながら走り続けているんだと思います」