言語化することで失われてしまう言語以前の世界に、言葉で触れるにはどうしたらいいか。こんな難問への答えを、俳人の長谷川櫂(かい)さん(64)が評論『俳句の誕生』(筑摩書房)で鮮やかにまとめた。鍵になるのは「切れ字」が生み出す「間(ま)」だ。
芭蕉の句、〈古池や蛙(かわず)飛びこむ水のおと〉について、弟子の支考による『葛の松原』の記述から、「芭蕉は古池を見ていたわけではない。部屋の中での句会で、カエルが飛び込む音を聞いて作った」と分析する。
「古池や」の「や」は間を生み出す切れ字。この1字によって、芭蕉の心は実在の空間から離れ、心の世界に浮かぶ古池、にたどりついた。それは、言葉の理屈の介在しない「空白の時空、沈黙の世界」であり、その世界でこそ詩歌が生まれる、というのだ。
実作者としてはどのように沈黙の世界と対話しているのか。俳句を作るときの心の状態は「心がさまよっている、ぽーっとしている」という。意図してそういう状態に自らを置くこともできるが、日常生活のなかで突然、そういう状態が訪れることもあるという。他人との会話の途中や車の運転中、あるいはジムで運動しているときにも。
2015年発表の句集『沖縄』にはこんな1句を収めた。
《夏草やかつて人間たりし土》
沖縄本島のかつての激戦地を訪ねた際に作った句だ。脳裏に戦争をめぐる様々な場面や言葉が次々と浮かんでは消えていった。たどり着いたのが切れ字の「や」と「かつて人間たりし土」という言葉だったという。夏草が茂る実在の風景から、死者たちの血や骨が土を覆う過去へと読者は連れて行かれ、おびただしい死を前に人間が抱く、言葉に尽くせない悲しみや怒りを受け止めることになる。
『俳句の誕生』では、現代の俳句について〈大衆化が極限にまで進み、内部から崩壊しつつある〉と警鐘を鳴らした。〈批評と選句の能力を備えた俳句大衆の指導者だった〉高浜虚子の死後、高度成長とマスメディアの発展によって大衆化はさらに進み、批評は衰退していった、とみる。近年では加藤楸邨、飯田龍太の名を挙げ、「2人が亡くなった後には批評性を持ち、時代を代表する俳人はいなくなった」と指摘する。
こうした厳しい批判の言葉は、自身にも返ってくるのでは。そう問うと、「言葉と俳句の歴史を踏まえ、単なる好みでない選句ができ、きちんとした評論を書く。それが批評性を持った俳人。自分はそうなりたいと思っている」と話した。
同書は、サントリー学芸賞を受けた『俳句の宇宙』に始まる批評3部作の3作目でもある。「俳句の批評とはどうあるべきかという問いに対する現時点での答え。それがこの本です」(赤田康和)=朝日新聞2018年6月27日掲載
編集部一押し!
- インタビュー 新訳「ピーターラビット」全23巻が完結 翻訳・川上未映子さん×装丁・名久井直子さん対談 朝日新聞文化部
-
- インタビュー 「モモ(絵本版)」訳者・松永美穂さんインタビュー 名作の哲学的なエッセンスを丁寧に凝縮 大和田佳世
-
- 鴻巣友季子の文学潮流 鴻巣友季子の文学潮流(第19回) 翻訳が浮き彫りにする生の本質 小川哲、水村美苗、グレゴリー・ケズナジャットの小説を読む 鴻巣友季子
- 新作映画、もっと楽しむ 映画「がんばっていきまっしょい」雨宮天さん・伊藤美来さんインタビュー ボート部高校生の青春、初アニメ化 坂田未希子
- トピック ポッドキャスト「好書好日 本好きの昼休み」が100回を迎えました! 好書好日編集部
- ニュース 読書の秋、9都市でイベント「BOOK MEETS NEXT」10月26日から 朝日新聞文化部
- トピック 【直筆サイン入り】待望のシリーズ第2巻「誰が勇者を殺したか 預言の章」好書好日メルマガ読者5名様にプレゼント PR by KADOKAWA
- 結城真一郎さん「難問の多い料理店」インタビュー ゴーストレストランで探偵業、「ひょっとしたら本当にあるかも」 PR by 集英社
- インタビュー 読みきかせで注意すべき著作権のポイントは? 絵本作家の上野与志さんインタビュー PR by 文字・活字文化推進機構
- インタビュー 崖っぷちボクサーの「狂気の挑戦」を切り取った9カ月 「一八〇秒の熱量」山本草介さん×米澤重隆さん対談 PR by 双葉社
- インタビュー 物語の主人公になりにくい仕事こそ描きたい 寺地はるなさん「こまどりたちが歌うなら」インタビュー PR by 集英社
- インタビュー 井上荒野さん「照子と瑠衣」インタビュー 世代を超えた痛快シスターフッドは、読む「生きる希望」 PR by 祥伝社