後に気づいたことだが、私の母は少々変わった読み聞かせをしてくれていたようだ。
周囲の親たちが『シンデレラ』や『孫悟空』を読む中、母は松本清張が描いた復讐劇について滔々と語った。友だちが『ウサギとカメ』に出てくるカメの地道な努力に感心しているそばで、私はいじめで飼っていたカメを盗まれる少年の話に胸を痛めていた。さらに年の離れた姉がいる影響もあって、幼いころから随分とませていた。
清張を通して「人間の悪意が一番怖い」と知っていたので「幽霊が恐ろしい」という意識が薄かったように思う。だから小学五年生のとき『学校の怪談』という本を書店で見掛けたときは、鼻で笑った。
同書には「口さけ女」を分析するコーナーがあり「口がさけた理由」や「服装ともちもの」など細かい情報が整理されていた。その中で口さけ女に出会ったときの対処法がいくつか紹介されていて、女に「あたし、美人?」と聞かれたときは、はっきり答えると襲われるため「まあまあですよ」と返すよう助言があった。そのあまりに脱力した解決法に拍子抜けする一方、「人面犬」の分析コーナーでは、人面犬が「高速道路を時速140キロ以上で走る」「6メートルぐらいは、平気でジャンプする」などとあって、めちゃくちゃな設定にリアリティを求める自分がいた。
その中で異彩を放っていたのが、清張風のタイトルを冠した「うばった指輪」。或るタクシー運転手が乗客の女性を殺害し、指ごと切断して立派な指輪を奪う、というシリアスなもので、3年後、タクシーに乗せた男の子から衝撃の一言を浴びせられる。この話で怪談に興味を持ち、高校1年生になるまで『学校の怪談』シリーズを買い続けることになる。
生まれて始めてハマった物語集。私は新刊が出るたびに購入し、気に入った話を繰り返し読んで覚え、友人に話して怖がらせることに喜びを感じるようになった。
本稿を書くにあたり、改めて読み返してみたが、面白いと思う話は少年のころと変わっていない。皆、どこか清張を思わせるので、これも母の〝英才教育〟の賜だろう。
「ひろった財布」は、拾った財布を盗んだ男が、落とし主の女性の前で財布を探すフリをするという設定で、女性の最後のひと言が怖い。「おとうさんの肩」は、妻を殺した男が幼い我が子から告げられる言葉にゾッとする。小説を書いている際、会話文に調子が出ないときは、その日の執筆を止めることにしている。それはこの『学校の怪談』シリーズでカギカッコの力を知ったことが大きい。
記録媒体の使い方も学んだ。「手・手・手」や「ハードル」は写真の現像やビデオの再生による怪談だ。「コピー」は、中学教師がプリントをコピーしている最中に死亡し、登校してきた女子生徒がそのおぞましい光景を見て悲鳴を上げる。シリーズの中でも最も気に入っているのが「となりの死体」だ。
男二人で冬山に登った大学生D男だったが、後輩が途中で力尽きてしまう。何とか山小屋を見つけて暖を取り、そこから少し離れたところに穴を掘って後輩を埋めた。しかし、翌朝目を覚ますと、隣に後輩の死体がある……次の朝もまた同じことが起こる。D男はビデオを設置して、空白の夜を記録することにした。そして、三日目の朝も後輩の死体が隣にあった。下山したD男は、録画したビデオを再生して震え上がる。そこに映っていたものとは――。
今年、私は『歪んだ波紋』という松本清張を強く意識した社会派短編集を発表したが、この中の一編に、記録媒体を使って意表を突く作品がある。子どものころに体験した読み聞かせや読書が、大人になった今も自分の中に息づいていると実感した。