数学がわからないからこそ書いてみたかった
物語は、大学で准教授として教壇に立つ熊沢勇一が、かつての恩師・小沼を訪ねるシーンから始まる。熊沢の手には学生時代、ともに数学の研究に打ち込んだ同級生、三ツ矢瞭司が遺した研究ノートが。そこには、未だ解明されていない「コラッツ予想」の証明と思われる記述が綴られていた――。
天才的な数学の才能を持つ瞭司、数学オリンピックの日本代表だった熊沢と斎藤佐那、3人を大学に招いた小沼教授。登場人物は数学者たちだ。岩井さんも大学、大学院と微生物を研究した理系の人。だが、「実は数学は大の苦手で……」と苦笑いし、こう続けた。
「もし僕が数学を理解できる人間だったら、そこまで数学に魅力を感じなかったかもしれない。わからないから憧れ、わからないからこそ書いてみたかった」
本の最後には参考文献が記されている。いずれも数学者や数学に関するノンフィクションで、岩井さんが強くインスパイアされた作品だという。「数学者の生き方って、ほかの科学分野の研究者と比べると『純度』が高く、ドラマチックな生涯を送っている人が多い。そういう人物や人生をフィクションの世界で描きたいと思ったのです」
物語には、コラッツ予想やムーンシャイン予想、掛谷予想といった、実際にある数学の問題が出てくる。「書き始める前に、まず勉強が必要でした(笑)」と岩井さん。しかし、数学がちんぷんかんぷんという読者も決して置き去りにしない。「数学がよくわからない人でも、詳しい人でも満足してもらう作品に。そこは心を配りました」
数学者たちの、しかし誰しもが経験しうる青春の苦悩
数学をテーマにした数学者たちの物語だが、描かれているのは、友情、恋愛、羨望、嫉妬、劣等感、後悔……と、誰しもが経験しうる青春の苦悩だ。数学の世界が持つ「正しさ」と「美しさ」が、ときに登場人物たちを明るく照らし、ときに残酷なまでに打ちのめす。
物語は、瞭司と熊沢、二人の語り手によって進んでいく。幼いころから天才的な数学の才能に恵まれたことで周囲と馴染めず、小沼や熊沢、佐那と出会ってようやく自分の居場所を見つけた瞭司。しかし、皮肉にもその過剰なまでの才能によって、仲間や恩師は瞭司から離れていく。瞭司は一人、孤独を深めながらコラッツ予想の証明にのめり込み、やがて深い闇へと堕ちていく。救いの手を求める友を、熊沢は冷たく突き放し……。
登場人物にモデルがいるのかを問うと、「瞭司に関しては、本で読んだ天才数学者たちの共通点のようなものを僕なりに抽出し、人物像を作りました」と岩井さん。さらにこう打ち明ける。
「熊沢はある意味、僕自身かもしれない」
岩井さんは、大学と大学院で研究に打ち込みながら、体育会剣道部で竹刀を振った。「研究も剣道も僕なりに頑張ったものの、思うような結果は出せなかった。自分より才能のある人を目の当たりにし、挫折も味わった。熊沢が瞭司に抱いた憧れと劣等感は、僕が経験したそれを映し出していると言えます」
研究と剣道を諦めた岩井さんが、唯一「人生をかけられる」と思えたのが、小学生のころから好きだった物語作りだった。しかし、書き始めてはみるものの、いつも途中で挫折してしまう。
物語のサンプル数を増やす「自主練」が実を結んだ
「最後まで書けない理由を考えたとき、まだ物語的な体力がないに違いない、と。自分の中の物語のサンプル数を増やすために、学生時代はとにかく本を読みました。」
その「自主練」が実を結ぶ。就職してから再び物語作りに挑むと、結末まで書き切ることができた。自信をつけた岩井さんは、会社勤めをしながら執筆を続けた。「とにかく書くことが楽しい。どんなに仕事がしんどくても、小説を書いているから頑張れる」
昨年の「野性時代フロンティア文学賞」で最終候補に残り、勝負をかけた今年、今作で悲願の受賞を果たした。「大好きな『書くこと』を続けられる」と、岩井さんはホッとした表情を見せた。
作品のキーワードは、タイトルにもある「永遠」。瞭司にとって、熊沢にとって永遠とは? 岩井さんが永遠に込めた思いとは? 深い森のような数学の世界に身を投じ、さまよいながらその「解」を見つけてほしい。