保育園で保育士さんたちを前に「3年目の浮気」を朗々と歌い上げたのが、人前で歌った最初の記憶です。出だしとサビしか憶えておらず、途中がすっぽりと抜け落ちた無様な出来映えでしたが、私は四歳かそこらでしたし、なによりデュエットソングを一人で歌うことに無理があったようにも思いますので、やむを得なかったと大目に見ていただきたいものです。
思い返すと、両親がギターを手に弾き語りする家庭に育ったというわけでもないのですが、なんだかフォークソングばかり聴いていたような気がします。「22才の別れ」「赤ちょうちん」「『いちご白書』をもう一度」などは、たぶんいまでも歌詞を見ずに歌えるはずです。本当に幼い頃は「なごり雪」も歌えたのですが、声変わりとともに歌いきれなくなったのは、とてもかなしいことでした。
長じるにつれ、私は音楽と自分の関係がいかなるものであるか、徐々に悟っていきました。生きるつらさを音楽に救われることや、メロディが胸に染みて離れないことは、私には起こらない。むろん、楽しい音楽を聴けば楽しく、悲しい音楽を聴けば悲しく感じますし、歌を口ずさむことは好きでした。しかし、それはどこまでも、それだけのことでしかなかった。多くの級友が「自分の音楽」を見つけていく中、私は、自分の人生にとって音楽は潤色以上のものにはならないことを知ったのです。
なぜ私が音楽を求めなかったのか、それはわかりません。もしかしたら、その頃から既に自分の物語を書いていたことと関わりがあるのかもしれませんし、センスがないという一言で片づけられることなのかもしれない。わかりません。やがて音楽と私のかかわりは、歌詞を中心としたものになりました。音楽を愛する人々が、歌詞など副次的なものであり音こそが主であると力強く主張するのを聞き、そうなのだろうと納得しつつも、CDを聴くよりライナーノーツを読むことが好きでした。スピッツ「スパイダー」とTM NETWORK「Self Control」は同じことを歌っているのだろうとか、Danny Kaye with the Andrews Sisters「Civilization」とMadonna「Material Girl」とJamiroquai「Virtual Insanity」は同一直線上に位置し、おそらくはDaft Punk「Technologic」もそうなのだろうとか、歌を聴くことをもっぱら詩人たちのことばを読むこととして楽しんできました。そう、つまり私には、大好きな音楽がなかったのです。
私は小説を書いて生きています。そして、このような仕事をしていると時折、小説は人間にとって必要不可欠であるとか、小説を読まない人間がいるとは信じられないとか、果ては小説を読まないことは人生を損なうことであるとかいう言葉に接することがあります。しかし私は、そうは思いません。私にとって小説は不可欠であり救いでしたが、音楽はそうではなかった。同じように、音楽が不可欠であり救いだけれども小説は必要としないひともいるでしょう。愛があればそれだけでいいひとも、飯がうまいことが救いであるひとも、魂に何も必要とはしないひともいるでしょう。どれもひとつの人生です。誰であれ自由に生きればいい。
二十歳になる年、気がつくと、武田鉄矢の「少年期」を歌っていました。そして実を言えば、いまでもときどき、口ずさんでいます。