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日本のロック熱は女子の〝好き〟エネルギーが作ってきた 映画「ボヘミアン・ラプソディ」公開を機に振り返る

映画「ボヘミアン・ラプソディ」から©2018 Twentieth Century Fox
映画「ボヘミアン・ラプソディ」から©2018 Twentieth Century Fox

 映画「ボヘミアン・ラプソディ」が公開されて話題だ。イギリスのロックバンド、クイーン、そのヴォーカルのフレディ・マーキュリーに焦点を当てた伝記映画。なるほどクイーンは映画が作られるにふさわしいスーパースターだが、1973年のデビュー当時は本国では全く人気がなく、評論家たちにも大不評で「グラムロックの残りカス」とまで書かれたとか。残りカスって……どうよ? よもや半世紀後に伝記映画が作られるとは、書いた評論家も思わなんだろう。

クイーンのフィーバーは日本から世界へ

 そんなクイーンを最初に注目し、人気を獲得したのは、実はここ日本。しかも音楽雑誌の女性記者の先見の明からだった。その記者とは東郷かおる子。後に、音楽雑誌「ミュージック・ライフ」の編集長となるが、1973年当時はそこの1記者だった。

 「ミュージック・ライフ」は1937年に歌謡曲の投稿誌として産まれ、1953年からはジャズと歌謡曲を紹介し始め、1960年代からは海外のポピュラーミュージックを紹介する音楽雑誌として一時代を築いた。

 東郷かおる子は1967年に「ミュージック・ライフ」を発行する新興楽譜出版に入社する。高卒の女子。最初は経理部に配属されるも、ゴミ箱に捨てられたスターの写真が載る校正紙を拾っては抱きしめ、憧れのスターに一瞬会えただけでワンワン泣いて感激していた。その熱意で編集部へ異動。愛と情熱で働く、若き女性記者だった。

 そんな東郷がクイーンを初めて誌面に登場させたのは1974年5月号。モノクロのグラビア1ページ。「イギリスの新しいアイドルはこれだ!」と銘打ち、「最も将来が期待されているのがこのクイーンである。久しぶりに登場したルックス良し、音良しの華やかな雰囲気を持った若者たちだ」と書いた。東郷はデビュー曲「炎のロックン・ロール」を聴いて気に入っていた。

「メンバーはどんな顔をしているんだろう? そのうちに、モノクロのメンバー・ショットが届いて、それを見たら、ルックスもすごくいいわけね。当時は、まだ四人とも若かった。これ、結構いけるんじゃない?と思って、とりあえずミュージック・ライフに写真を出してみようとグラビアに出したら、読者からすごい反響があったの。それで、クイーンは人気が出るな、いつか取材したいな、と思っていたわけね」
(『ミーハーは素敵な合言葉』より)

 その機会は瞬く間に訪れた。同じ年の7月号に掲載する、モット・ザ・フープルというイギリスのバンドの“ブロードウェイでの初のロック・コンサート”を取材するために初めての海外、ニューヨークへ行くと、その前座がなんと!クイーンだった。当時そんなわけでクイーンは人気がなく、増してやアメリカなどではまだ無名。照明も暗い中でのわずか30分の演奏だったが、東郷は「このバンドが日本で受けないはずがない!」と確信した。それは彼女の勘というか、ミュージシャンのスター性をかぎ分ける嗅覚で、見事に的中することになるのだが、ここからがまたすごい。

映画「ボヘミアン・ラプソディ」から©2018 Twentieth Century Fox
映画「ボヘミアン・ラプソディ」から©2018 Twentieth Century Fox

ファンの目線でメンバーに直談判

 コンサート後、モット・ザ・フープルのレコード会社の人たちとレストランに行くと、そこにたまたまクイーンのメンバーがやって来た。東郷はずんずんと彼らのテーブルに近寄り、「日本から来た、こういう雑誌の者です。先月号なんですけど、あなた達の写真が載ってるんです」と「ミュージック・ライフ」を差し出した。するとクイーンのメンバーたちは「僕たちの写真が載ってる!」と大喜び。何せ人気がなかったんだから……。東郷はすかさず「時間があるなら明日インタビューを取らせてもらえませんか?」と直談判した。当時ろくに英語も話せなかったという東郷、しかも初の海外取材。大した度胸だ。

 これが東郷と「ミュージック・ライフ」の、クイーンとの運命としか言いようのない出会いで、そこから「ミュージック・ライフ」はクイーンに何度も取材を重ね、大々的に掲載する。英米でも彼らは少しずつ知名度が上がっていたものの、日本での人気は圧倒的なものになった。1975年4月の初来日時には羽田空港に1200人以上ものファンが集まって、クイーンのメンバーはもみくちゃになった。

 その大フィーバー振りは当然ながら海外へもニュースとして伝わり、そのことがアメリカやイギリスでの宣伝活動に火を点け、もちろん実力あってこそだが、クイーンは世界的スターへと上り詰めて行く。翌1976年の「ミュージック・ライフ」4月号には「クイーン、ついにアメリカでも一流グループの仲間入り」とある。そのきっかけは、東郷の金の卵を見抜く目と耳だったわけだ。

 彼女のスターを見つける嗅覚は、1978年に再び発揮される。後に世界的スターとなるチープ・トリックだ。レコード会社から持ち込まれた、前の年にデビューしたばかりの彼らのレコードを聴くと「そこそこパンクっぽくて面白い」と東郷は思った。「じゃ、確かめてみよう」とまたアメリカへ渡り、ブルー・オイスター・カルトというバンドのこれまた前座を務める30分たらずのチープ・トリックの演奏を見た。東郷はこれにたちまち撃ち抜かれた! 

 ちょうどクイーンの人気もひと段落。「新しいスターが欲しい!」と思っていた。「ミュージック・ライフ」は、今度はチープ・トリックを毎号大々的に掲載して、彼らは日本で爆発的人気を得る。ヴォーカルのロビン・ザンダーは王子様的アイドルとなり、他のメンバーもキャラが立っていた。武道館でコンサートを行い、そのライヴ盤が作られて発売されると、なんと全米ナンバー1に輝いた。武道館という名前も、ここで一気に世界に広まったのだ。

 2015年に私が東郷にインタビューしたとき、逸材を見つけ、それを大々的に推してスターに育てていく過程をこう言っていた。

「格好いい!と自分が思えることが原動力なわけ。別にファンじゃなくても、光ってる、ビビッときた、行けるわ!と思うと、私のアドレナリンはすごいから。しかも、当たるんだよ、それが。私は最大公約数の人間なんだよね。特別な感性じゃないの。普通なの」
(「季刊レポVol.19号」より)

 大衆が何を求めているかを見抜くプロデューサー眼ではなく、大衆、しかも熱狂する女性ファンの目と耳そのものを自ら持ち、逸材を見つけ、とんでもない情熱と、大胆な行動力でクイーンを、そしてチープ・トリックをスターにした東郷かおる子。こんな女性が昭和の時代に日本でロック文化を培っていたのだから驚くが、「ミュージック・ライフ」には実は、東郷が憧れた先人がいた。

日本刀携えてビートルズを訪ねる

 1965年、当時既に大スターで誰も成し得なかったビートルズとの単独会見に成功した、ミュージック・ライフ編集長・星加ルミ子がその人だ。彼女については、『ビートルズにいちばん近い記者~星加ルミ子のミュージック・ライフ』が詳しい。

 星加は短大で英語を学んでいた20歳のとき、新宿のジャズ喫茶で偶然「ミュージック・ライフ」の求人広告を見つけて応募、アルバイトとして入社した。1960年のことだ。最初は読者からの投稿ハガキの整理など雑用をしていたが、3年後には彼女が実質的な編集責任者になる。

 それまで日本の歌謡曲と海外のポピュラー音楽を載せるどっちつかずだった「ミュージック・ライフ」を、1963年9月号でエルヴィス・プレスリーを表紙にし、海外のポピュラー音楽専門誌に変えた。投稿欄の担当者だった彼女は、「海外の歌手を載せて」という読者の声が日に日に増えていることに気付いて大胆な路線変更をしたのだ。

 それはすぐに功を奏す。1964年2月にビートルズが日本デビューすると、「ビートルズかわいい」という声が続々寄せられた。星加はこれだ!とピンときて、同年4月号でビートルズを表紙にする。宣伝用のモノクロ写真を色づけし、それぞれの顔を切り抜いて配した。この表紙は大好評で、一か月後の返本の際には表紙だけが切り取られたものが幾つも送り返されてきたそうだ。

 そこから日本でもビートルズ人気が爆発。それに伴って海外のポピュラー音楽を紹介する「ミュージック・ライフ」の売り上げもどんどん伸びていく。星加は20代前半でやり手の編集長だった。

 そんな星加をロンドンに飛ばし、ビートルズに取材させたい、という思惑が周囲から沸き起こるには時間がかからなかった。とはいえ、そう簡単に事は運ばない。ロンドンのオフィスに問い合わせれば、素っ気なく断られる。それでも星加はロンドンに行くことになった。とにかく行ってみなよ、というムチャ振りだ。世界一周、一か月にわたる取材旅行の日程を組んで1965年6月、星加は日本を発った。海外渡航が自由化された1年後のことだ。

 しかし、ビートルズに会えるという確証はない。というか、全く希望はなかった。そこで彼女はまずマネージャーに気に入ってもらおうと、お土産に本物の刀をロンドンへ持って行った。今ほど法律も空港も厳しくなかったとはいえ、なんということをするんだろう。星加はビートルズの4人にあげるお土産用のおもちゃの刀に本物の刀を紛れ込ませて持ち込み、ロンドンでマネージャーにプレゼントした。

 それが功を奏した……というよりは、日本の音楽雑誌の編集長がまだ20代前半でビートルズと同年代、小柄でおかっぱ頭のニコニコした女の子(イギリス人から見たら子どもに見えただろう)だったことにマネージャーは心を動かされたのだろうと、後に星加自身が言っている。日本公演を行った際には若者たちに見て欲しいと、チケットの値段を低く設定してもいたビートルズだ。当時、彼らは若者の代表であり、仲間だった。星加は仲間として、ビートルズに迎え入れられたのだ。

 星加はビートルズに会うことができた。30分の予定が3時間にも及んだという。ビートルズと星加が並んだ写真は「ミュージック・ライフ」の表紙のみならず、世界中の音楽雑誌、そして日本のスポーツ紙や週刊誌をも飾り、日本の若い女性がビートルズに会ってきた!とTVやラジオでも大きな騒ぎとなった。

 もちろん、それまでもビートルズは日本でも人気だったが、星加が会ったことで日本におけるビートルズは俄然リアルな実像となって、当時は本当に存在していた「お茶の間」レベルのスターになった。その後の来日公演では教育界や文化人、放送人、政治家、警察まで日本中を巻き込んだ大騒動になっていく。

 星加がロンドンでビートルズに会ってなかったら、果たしてここまでビートルズは日本で市民権を獲得しただろうか? 星加が日本にビートルズというスターを連れてきた、といって過言ではないと思う。そしてそれは、日本にロックという音楽文化を根付かせる、大切な大切な一歩だった。

 さて、その星加が10代から憧れていたスターはエルヴィス・プレスリーだった。星加はビートルズに会った旅で、実はアメリカに渡ってエルヴィスに会うための画策を図ったが失敗していた。もしビートルズ同様にエルヴィスとも一緒に並んで写真を撮り、「ミュージック・ライフ」の表紙を飾っていたら、どうなっていただろう?

 同じことを「ミュージック・ライフ」で当時、「スターの花かご」という人気コラムを書いていた湯川れい子も考えていた。82歳の今も音楽評論家として現役の彼女は1965年10月に渡米し、日本でも大人気だったアメリカのシンガー、パット・ブーンの自宅を訪問する。彼女はパットの来日公演の司会を務めたりで(注:当時はコンサートに司会がついた)、彼とは懇意だった。そしてパットはエルヴィスの友人でもあり、湯川はパットにあるお願いをしていた。

「アメリカに行けるようになったらあなたに会いたい。そしてエルヴィスに会わせてほしいの」
(『女ですもの泣きはしない』より)

 スター相手に言うね!と思うが、彼女は物おじせずに綱引きをぐいぐい手繰り寄せるように、欲しいものを自分の力で引き寄せる人だ。多少強引でも、笑顔と丁寧な物腰で相手を納得させてしまう。パットはそれで「ロスに来たら感謝祭に自宅に招待するよ」と言ってくれた。湯川が本当に訪問すると、パット自らエルヴィスのオフィスに電話をして取材の交渉までしてくれた。「彼はハリウッドで映画の撮影中。時間が空けば会えるそうです」

楽屋を訪ね、プレスリーとキス

 ワクワクして待ったが、結局このとき湯川はエルヴィスに会えなかった。エルヴィスは日本を熱狂させるせっかくの機会を失ってしまったのだ。当時彼は30歳。デビューした1956年は21歳だった。エルヴィスがデビューした頃、湯川はまだ音楽評論家ではなかったし、「ミュージック・ライフ」に星加も東郷も当然ながらまだいない。誌面では男性評論家たちが「エルヴィスは男ストリッパーか?」とか、「ハクいスケにもてようと期待するならばエルヴィスの秘密を取得吟味して新しい戦術を作り出せ」といった、過去の価値観を覆す新しいタイプのロックスターを理解できず、彼をこき下ろす記事ばかりが目立った。エルヴィスと日本はタイミングがことごとくズレていた。

 それでも湯川自身は全くあきらめていなかった。1971年8月、ラスヴェガスでエルヴィス・プレスリーに初めて対面する。コンサートの楽屋でのことだ。時間は少ししかなかった。

「長居はできない。私は進み出て言った。『キスしてください』エルヴィスの顔が近づき、やわらかい唇が私の唇に触れた」(同)

 エルヴィスはコンサートで、ファンの女性にキスするのが習わしだったとか。だからキスしてもらいたかったという。湯川はエルヴィスの前でファンであろうとしたのだ。そして、その一部始終をありのまま、エルヴィスがどんなにステキだったかを新聞に書いた。するとそれが「評論家の風上にも置けない」という大バッシングを巻き起こし、湯川は逆に腹をくくった。

「私は評論家などと呼ばれなくたっていいのだ。一生、ミーハーのままでいてやろうじゃないか、という気持ちがさらに強くなった」(同)

 湯川にとって「ファンである」ことは、音楽の仕事をする上で最も大切なことだった。1966年のビートルズの日本公演で、武道館に響き渡る少女たちの無垢な嬌声に心底胸打たれ、同時にその少女たちを力任せに抑え込む権力に激しい憤りを感じていた。

「力を誇示する男たちは自分には理解できない、自分の支配力が及ばないエネルギーが怖いのだろう。それなら私は一生、この『キャアア』という叫びの側にいよう」
(『音楽に恋をして~評伝湯川れい子』より)

 拙著の引用だが、湯川れい子は敢えてファンの側に立ってロックを伝えてきた。それはエルヴィスに会った翌年の1972年から24年続いた、湯川がDJを務めたラジオ番組「全米トップ40」でいかんなく発揮され、ロック文化を楽しむことを日本の若者たちに広く伝えた。

 ちなみに湯川のキス事件騒動こそ、日本では既に忘れられた存在だったエルヴィス・プレスリーが、お茶の間でも知られるスターになるきっかけだった。ジャンプスーツで太ったロックスター、エルヴィスという少々ねじまがったイメージではあったものの、エルヴィスの名前と姿は日本で広く認知されるようになった。

 東郷かおる子、星加ルミ子、湯川れい子。彼女たちはひたすらロックを愛し、大胆な行動を起こし、時には暴走もし、それが日本にロックという音楽と文化を根付かせ育て、遠く世界にまで波及させもした。好きこそものの上手なれ。“好き”のエネルギーはどんなハードルをも乗り越ていくのだ。

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