パイはほんのりと温かかった。中身がジュースのようなのに、生地はさっくり軽く、ほろほろと溶けるようだ。ソースはリンゴの酸っぱさとカスタードの甘さが混ざり合い、果肉を噛むとかすかにシャリっとした食感とさわやかな香りが口の中に広がる。こんなアップルパイは食べたことがなかった。本当に、夢のような味だった。 (「ぶたぶたと秘密のアップルパイ」より)
こんがりきつね色に焼き上げたサクサクのパイに包まれた、甘酸っぱいリンゴ……。この季節になると無性に食べたくなるのがアップルパイです。今回は、こんな美味しそうなアップルパイを作っているのが、実はぶたのぬいぐるみ(中身は中年男性)だった!というお話をご紹介します。
物語は、ある日、行きつけの喫茶店でキリ番のレシートをゲットしたイラストレーターの森泉風子が、店のオーナーから「誰にも話せない秘密を、そこにいる店員に話してください」と告げられ会員制の喫茶店を訪れます。そこでコーヒーを入れていたのは、バレーボールほどの大きさの ぶたのぬいぐるみ「山崎ぶたぶた」でした。見た目はかわいらしいピンク色のぬいぐるみですが、中身は中年男性の「ぶたぶた」のもとには、人に言えない悩みや不安を抱えた人々が集まってきます。
読むと思わず「ぶたぶたさんのアップルパイが食べてみたい!」と叫びたくなったのは、きっと私だけではないはず……。著者の矢崎存美さんに、制作時のエピソードなどを伺いました。
高校生の頃に見た夢のアップルパイを再現
――これまでの「ぶたぶた」シリーズでも、すし職人やパティシエなど、ぶたぶたが食べ物を作る職業の話は多くありますが、「アップルパイ」と特定の食べ物がつくタイトルは今作だけですよね。何かアップルパイに特別な思い出があるのでしょうか。
私は「ぶたぶた」に限らず、基本的に自分が体験したことや印象に残ったものを作品に書いているんです。この物語の中で、喫茶店のオーナー右京が夢で見たアップルパイをぶたぶたが再現したとありますが、あれ、実は私自身が高校生の頃に見た夢のことなんです。そのアップルパイは、パイ生地がホロホロとして、カスタードソースが中からこぼれる、今まで食べたことがないようなものでした。
――夢に出てきたアップルパイの味は覚えていますか?
夢で見たパイは「リンゴ」「カスタードソース」「パイ」の味それぞれが「美味しい」って覚えているんです。それらが融合した味が頭の中で「ひとつの味」としてまとまって、そんなアップルパイなら「美味しそうだな、食べてみたいな」と思ったんです。基本的に記憶の糸口が「食べ物」だってよく言われるんですけど、この夢も食べ物が出てきたから覚えていたんですね。
――お話を伺っていると、矢崎さんもなかなかの「食いしん坊」ですよね!
私も「食べ物小説」を読むのが好きですよ。村上春樹さんの『羊をめぐる冒険』で、主人公が別荘にストックしている食材を使って作るパスタや、大藪春彦さんの『汚れた英雄』の、ハンティングで仕留めた獲物を焚火の中でローストする場面とか、単に美味しそうなものが書いてあるだけじゃなくて、どういう状況や環境で食べているかっていうところは読んでいても、自分で書く時も気になります。
――今作では、会員制の喫茶店や「ぶたぶた」という存在など、ちょっとした「秘密」がある場所で出されるメニューだから、より美味しそうに感じるのでしょうか。
ぶたのぬいぐるみが作ってくれる、というのがいいんですよ。「こんなのが作るなんて信じられない!でも食べてみたら美味しいじゃん!」みたいな(笑)。楽しい驚きというか。タイトルに「秘密の」とつきますが、アップルパイも、この店に集まる人たちだけに知っていてもらえたらいいお菓子なんです。その人の抱えている秘密や事情も、そのくらいがちょうどいいんだと思います。みんなに言う必要はないけど、ここに来る人たちくらいには知ってもらったほうが、ちょうどいい。そんな適度な関係を紡いでいるのが「山崎ぶたぶた」という主人公なんです。