「野菜を入れましょう。七菜ちゃん。まずはごぼうと人参取って」「根菜からは出汁が出ますもんね」以前教わったことを口にする。頼子の目が柔らかく緩む。「覚えていてくれたのね。嬉しいわ」(中略)「春キャベツは柔らかいし、ねぎは煮すぎると苦みが出ちゃうから、味つけを済ませたあと」「せんべいも?」「せんべいは最後の最後に。ちょっと火を入れすぎると、あっという間にとろけてしまうから」「そか。せんべいの口あたりを残すところがポイントなんですね」(『働く女子に明日は来る!』より)
約2年間、連載を続けてきた「食いしんぼん」も、今回がラストです。
働いていると、辛いことや悩むこと、色々ありますよね。それでも何とか重い腰をあげて、日々がんばっている皆さんにエールを送る作品をご紹介します。
テレビドラマ制作会社のアシスタントプロデューサー(AP)として働く七菜は、尊敬するプロデューサーの上司・頼子さんをお手本に、連続TVドラマ『半熟たまご』の現場で日々奮闘中。過酷な業務に追われ、好きな仕事なのに苦しくて辛いことが多く、彼氏の拓ちゃんとも顔を合わせればケンカばかり。だけど、頼子さんと作る美味しい「ロケ飯」を心の支えにしています。つまずきながらも、七菜が仕事に恋にと、少しずつ成長していくお話です。作者の中澤日菜子さんにお話を聞きました。
心も体も温める、明日への活力補給
——まずは、本作に欠かせない「ロケ飯」に着目された理由から教えてください。
自作の小説(『お父さんと伊藤さん』)が映画化されたり、ドラマ化(『PTAグランパ!』)されたりするたびに、現場にお見舞いに行っていました。その時に見聞きしたスタッフ、特にアシスタントプロデューサーさんたちの奮闘ぶりを見て、この小説を書こうと思いました。実際にAPさんに取材をし、お話をうかがううちに小説の構想が膨らんでいきました。
特にロケ飯作りのお話はとても面白かったですね。真夏のロケで、公園で50人分のそうめんをゆでたはいいが、冷やすことができず、泣く泣く廃棄するというエピソードが心に残っています。
また、お弁当の到着が遅れてみんなが殺気だっているときに、とある俳優さんが現場入りした車を弁当の配車と間違えて、スタッフ皆で襲撃(?)して俳優さんをビビらせてしまったというお話も面白かったですね(笑)。
——ハードな撮影が続く中、頼子さんと七菜が作中で作る「ロケ飯」は、温かいスープや飲み物のことが多いですよね。
「ロケ飯」を温かい汁ものにしたのは、作中では2月という一年でいちばん寒い時期の撮影だから、冷たいロケ弁だけでは気持ちも萎えてしまいます。なので、体が温まる汁物を用意してキャスト・スタッフに元気になってもらおう、という意図があります。それはロケ現場だけでなく、家庭でも同じ思いなのではないでしょうか。冷えた体を美味しい汁物で温めてあげたい。ロケ飯を作っているシーンは、そんな頼子の気遣いがあふれています。
——中澤さんがいちばん思い入れのあるメニューは何ですか?
私自身が思い入れのあるスープは、3話に登場するチリビーンズスープです。自宅でもよく作っていて、家族にも好評なメニューです。必要な野菜やたんぱく質が一度に取れるので便利なメニューでもあります。
——七菜の彼氏・拓ちゃんが差し入れてくれたレトルトカレーを調味料として使ったスープや、クミンシード入りの生姜湯など、各話に合ったぽかぽかメニューが登場しますが、どうやって選んだのですか?
まず話を考えてから、その話に合ったメニューを考えました。担当さんと打ち合わせをした時に「各話にひとつ、スープや飲み物を入れましょう」ということになっていたので、プロットを考えつつ、その話に見合ったメニューを選びました。小説のプロットを立てている際に「このシーンではこんな食べものが必要になってくるな」と考え、そこから作りだせる汁物を導き出しました。
——寒い外での撮影で冷えた体や、落ち込んでいる時の温かい汁ものって、ホッとしますよね! 中でも「せんべい汁」は、病を患う頼子さんが、倒れる寸前まで七菜と作っていた場面で登場します。ここではなぜ「せんべい汁」を選ばれたのでしょうか。
頼子のバックボーンを考えた時に、「青森の郷土料理で、上京前は頼子がしょっちゅう食べていた味」をみんなにふるまうことを思いつきました。頼子が倒れる寸前のメニューとして、ある意味、頼子の存在とかけて描くなら「思い出の味」=「せんべい汁」がぴったりだろうと思いました。
——頼子さんの故郷の味である「せんべい汁」をこのシーンで七菜と一緒に作ったのには、何か理由があったように思うのですが…。
キャスト・スタッフを自分の家族同然ととらえ、「その人たちを大切にしなさいね」という気持ちを込めました。独り身で家族のいない頼子にとって、座組は家族そのもの。そんな家族愛を七菜に伝えたかった、というシーンです。
——せんべい汁は青森県八戸市の郷土料理とのことですが、中澤さんは実際に召し上がったことはありますか?
数年前に家族で東北旅行をしたときに、毎食のように食べました。しょうゆベースの汁物にせんべいを入れるというのは前から知っていましたが、実際に鍋で出てきた時には、軽いショックを受けました。固いせんべいが汁を吸って旨みを増すところに驚きを覚えました。お雑煮とも違う、独特の食感も珍しくて面白かったです。
——つらい時やしんどい時、誰かが心を込めて作ってくれた料理を食べて「よし、もういっちょやってみるか!」という気持ちになったことがある人は(私を含め)多いと思いますが、本作を通して中澤さんが伝えたいことを教えてください。
仕事はしんどいことが多いものです。ドラマ作りだけでなく、それはどんな仕事にも言えることだと思います。本作を書くにあたって、美味しい食べものを食べてもらうことで、沈みがちな現場や雰囲気を「前に向かせる」ことができれば……と思って書きました。また、「同じ釜の飯を食う」ことで、バラバラだったチームがだんだんひとつにまとまっていく効果を狙えたらいいなとも思いました。
——作中で「味噌汁は意外とハードル高いよ」と七菜も言っていますが、中澤さんはお味噌汁で失敗したことはありますか?
一度、「これは合うかも」とみそ汁にバジルソルトを入れてみたことがあります。味噌とバジルが合わず、家族に大不評でした。ですが飲めないこともない、という微妙な味になってしまい、家族にぶうぶう言われながら出したことがあります。
——「美味しいもの食べて、乗り越えよっ!」という本作の帯文にちなみ、中澤さんが「これを食べて頑張れた、乗り越えられた」という思い出の味を教えてください。
もう何十年も前になりますが、大学受験の時、夜食に自分で鍋を作っていました。ひとり分の小鍋にトマトベースのスープを作り、そこにベーコンや残りものの野菜を入れ、最後にうどんを入れて煮立たせ、チーズでとじたものです。本作では「洋風鍋」として登場させています。
家族が寝静まった深夜、ひとりで寒い台所に立ち、毎夜のように作って食べていたのを思い出します。受験勉強で疲れた頭のよい気分転換にもなりました。不安で仕方なかった大学受験の時、寒い中、自分で作った温かい洋風うどん鍋は凝り固まった頭とからだを解きほぐし、「もう少し頑張ろう」と思えたことがよい思い出です。体重も激増してしまいましたけど(笑)。
——本作のほかにも、中澤さんは『お願いおむらいす』のように、食べ物が背中を押してくれる作品を描かれていらっしゃいますが、食べものを描く時に大切にしていることを教えてください。
私も食べることが大好きなので、「美味しいものを食べて元気になる」ことを肝に描きました。なるべく具体的に食べものを出し、読者の方にもまるで一緒に食べているような感覚を持っていただければうれしいなと思います。