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AIと文学 ゼロから創作はできるのか 

12年ぶりに復活したソニーのロボット「アイボ」。AIを搭載して自ら感情表現を生み出せる=1月、池永牧子撮影

 四十年前、短歌を本気で作り始めた。ほぼ同時に、新しい計算機の構成法の研究をスタートした――そんな私に、同級生の一人が言った。
 「コンピュータは君でなくてもできるよ。短歌を中心に生きたほうがいい」
 この友人の名は、松原仁。今や人工知能の権威としてテレビなどでも引っ張りだこの男だ。でも、当時の彼は(もちろん私も)、何者でもないただの二十歳の学生だった。
 その松原が、最近「きまぐれ人工知能プロジェクト 作家ですのよ」という研究事業を始めたと聞いた。「ようやるわ」というのが最初の感想だった。今の人工知能(AI)は、論理的な思考を展開するのは得意だし、ディープラーニングなどで人間のまねを超高速でやることは上手。でも、ゼロから創作することはできない。レンブラント風の高度な絵は描けても、二十一世紀の新しいレンブラントになることは原理的に無理なのだ――そんな場所からどれぐらい離陸できるのだろうか。

知恵を学習する

 今現在の答えは、彼の近著『AIに心は宿るのか』に示されている。これを読むと――。
 思ったよりもまともなものができているじゃないか。素数やフィボナッチ数を登場させるのはいただけないけれど、場面を変えて「自分自身をシャットダウン」が繰り返されるところなど、なかなか面白い。
 この小説は、「星新一賞」の一次審査を通過した。これはそれほど驚かない。課題は次のステップだ。彼らは、星新一の千個の作品を解析し、これをもとにAIに新しい作品を書かせると言っているのだから。
 星新一といえば、「おーい でてこーい」や「生活維持省」の明るいブラックユーモアを思い出す。AIがらみでいえば、「肩の上の秘書」が有名だ。
 近未来、人の肩にはインコのロボットがとまっていて、これが他人とのインタフェースをする。セールスマンが「電気グモを買え」とつぶやけば、「じつは、わたしはニュー・エレクトロ会社の販売員でございます」の挨拶(あいさつ)にはじまって、みごとなセールストークを繰り広げる。応対する主婦が「いらないわ」とつぶやけば、「すばらしいわ(中略)余裕が、ございませんもの」と彼女のインコがていねいな断りを入れる。
 うむ。このインコぐらいは、今のAIでも作れそうだ。いろんな達人の知恵を、人工神経回路網に学習させればいい。
 でも、そんな世界、果たして楽しいだろうか。それに、肩にインコを載せたとたん、その人の人間的な成長は全く止まってしまいそう。「オーケー」「嫌」「頂戴(ちょうだい)」「ダメ」くらいで毎日過ごせるのだから。文学なぞはあっという間に衰退しそうだ。それでも、音楽や映像ではおもしろいことが残るのか。

社会との調和は

 というので、最近のメディアアーティストの本を読んでみる。落合陽一『デジタルネイチャー』。
 私も使う専門用語の連射の中で、落合さんは、近未来世界の論理・感覚・感情をまとめてぶつけてくる――「生活=仕事」だという〈ワークアズライフ〉は、個人の基本的人権が保障されれば結構。新しい幽玄という日本テイストのアート。これはたいへんおもしろい。ただし、〈個別最適な全体主義〉という話はちょっと行き過ぎ。個人と社会の調和のためには、落合さんにはまだ考えなければならないことがある。
 文学かコンピュータかという松原仁と私が交わした四十年前の会話は、落合さんなどには、もはやどうでもいいに違いない――このことは、不思議な愉悦と浮遊感を今の私にもたらしてくれる。=朝日新聞2018年12月8日掲載