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赤羽育ち荻原通弘さんのコレクター道 37年かけて収集したピンクチラシの歴史 

文:大嶋辰男、写真:時津剛、取材協力:友永翔大

キャッチコピーがお店の属性から女性の属性へ

――ピンクチラシも、ずらり、こう並べて見ると、興味深いですね。

 チラシも時代によってずいぶん違いますね。チラシを集め始めた1970年代末から80年代半ばにかけては、赤羽でキャバレー、ピンクサロン、ノーパン喫茶が次々開店して、チラシも街頭で配られていました。この頃のチラシは「安さ爆発」「愛と光を貴殿の手で!!」「探検好きのあなたに」「あなたも気持ちE~事しましょう。」と、あの手この手で客の心をくすぐろうとするコピーが書いてあります。「飲み放題」「食べ放題」といったサービス、「8時入店まで1500円」「9時まで3000円」などお店の情報も載っています。

――キャバレーもピンクサロンも業種は飲食店ですからね。1984年から2005年にかけて、チラシも変わっていきます。

 この頃になると、チラシのサイズはSuicaくらいの大きさになり、街で配られることはなくなり、公衆電話ボックスの中に貼られたり、駅の券売機の脇や公衆トイレに置かれたりしました。無店舗派遣型の風俗、いわゆるホテトルやデートクラブのチラシが主流になっていますね。その他、ダイヤルQ2を利用したサービスやテレクラのチラシもあります。チラシからは「飲み放題食べ放題」の文字が消えて、「女子大生」「若妻」「熟女」「金髪」「OL」など女性の属性が主たる情報として載っています。

――女性そのもの、サービスの内容そのものが露骨に〝商品〟になったんですね。印刷技術も進んで、鮮明なカラー写真で、あられもない女性の姿が載るようになりました。風俗業界の競争が激化し、写真も記載内容もどんどん過激になっていっていますね。いまから思うと、業界内の競争もそうとう激しかったんでしょうね。電話ボックスにびっしりピンクチラシが貼られるようになり、大きな社会問題になったことを思い出しました。

 2006年以降は風営法(風俗営業取締法)が大幅改正され、出張型風俗の取り締まりが強化されるとともに、チラシの規制も強まりました。いま、街でチラシを見かけることはほとんどありません。最近、たまたま、女性客相手の風俗業も出てきているんでしょうか。男性スタッフを募集する風俗店のチラシが、コンビニの壁に貼ってあるのを見つけましたが。

――何事もデジタルの時代。〝主戦場〟はウェブに移行しているんでしょうか。それはさておき、なんでまたヒトサマが眉をひそめるようなものを集めたのですか。

 仕事帰りに、たまたまチラシをもらったのがきっかけです。最初は、これって集めたらなんかわかるんじゃないかな、くらいに思っていたのですが、集めているうちに面白くなりました。チラシからこの街のもう一つの歴史が浮かびあがってくるんじゃないか、と思って、古い住宅地図を探して駅周辺の開発や歓楽街の変遷を調べてみたり、商店街の人に昔の話を聞き取りしたりしました。

ゲンカクな妻に隠して収集

――チラシを集めるうえで、苦労はありましたか。

 悪いことをしているわけじゃありませんが、やっぱり、集めるのは恥ずかしかったですね。当時は携帯電話なんかありませんから。みんなが順番待ちして並んでいる電話ボックスで、切れないよう、ゆっくりチラシをはがすのは至難の業。人影が少ない電話ボックスを選んで収集するようにしました。

――裸の女性の写真を使った艶めかしいチラシもありますね。店に入って〝実地調査〟したこともあるんでしょうか。

 とんでもない!妻はこういうことに非常にゲンカクで厳しいタイプです。そんなことをしたら冗談じゃすまない(笑)。ここは、あえて強調しておきますがね、私はチラシに興味がありましたが、風俗店には興味がありません。

――でも、ゲンカクな奥さまがいらっしゃる自宅に、チラシを持ち帰っていたんですよね?

 ですから集めるのもタイヘンでしたが、保管に気をつかいましたね。集めたチラシは紙袋に入れて、本箱の奥にしまって。妻も年をとり、ようやく、少しずつ集めたチラシを整理して、本を出版することができたんです(笑)。昔だったらできませんよ。「そんなものを集めていたなんて!」「恥ずかしい!」「いいかげんにしなさい!」って怒られちゃいますから。

――赤羽生まれの赤羽育ちだそうですね。

 母方のルーツは長野県の伊那の方ですね。父は東京ガスに勤めていました。婿養子でしたので結婚して母の実家に住んでいましたが、母が若くして亡くなり、別の女性と再婚したので出て行きました。私は母方の祖父母に育てられました。祖父も東京ガスに勤めていました。割とカタい家でしたね。

――子どもの頃から何かを集めたり、調べたりするのが好きなんですか?

 そういうことが苦にならないんですね。中学校の頃から貝塚に発掘に行って、土器とかもいっぱい持っていました。切手も集めていて文化祭で展示していたこともあります。キップや牛乳のフタも集めていました。集めることで、何かわかってくることがあるんじゃないか、なんて意識が昔からありましたね。気になると止まりません。各自治体のマンホールのデザインの違いが気になって、下ばかり向いて歩いていた時期もありましたね。

――大学は東京理科大で「界面化学」を学んでいます。

 本当は考古学をやりたかったんですが、祖父母から「ヒトの墓を掘るだけではメシは食えない」「ちゃんとした職業を持ちなさい」って言われまして。当時、日本の産業界は「化学」が盛り上がっていたんです。

――卒業後は化粧品会社に入り後に独立。社長さんもしていらした。

 従業員が10人程度のちっぽけな会社ですから大したことはありませんよ。会社は細々とそれなりに続いて、64歳で人に譲りました。譲渡後は、77歳まで開発担当の顧問として墨田区の化粧品・雑貨の会社で働きました。働いているときも、漢方の研究をしていて、古い文献を読んで、商品開発に生かしていました。

マッチラベルから古本、骨董まで集めまくる

――他に、どんなものを集めているんですか。

 マッチのラベルは5000~6000枚位はありますね。古地図、拓本、木札、印譜、骨董、木版画、古書、包装紙、祝儀・のし袋、不動産関係の広告、井上靖の初版本……いろいろです。

――ご自宅は本だらけですね。書斎のほかに書庫もあって。家の中の隙間という隙間に、資料なんでしょうか、蔵書が突っ込んであります。

 調べる仕事が本業の学者とは違います。仕事をしながら、少しずつ、調べたり集めたりしています。どのテーマも10年、15年単位で時間がかかっていますかね。材木屋さんみたいなもんで、木(気)ばっかりですね(笑)。

――古文書も読めるそうですね。

 医学、薬学の研究をしているうちに、昔の文献が読みたくて、50代半ばから勉強を始めました。研究したり調べたりすることって、「なぞ解き」を楽しむみたいな感覚がありますからね。どうやったらわかるようになるのか、と考えるところから面白いんですね。

――最近、興味を持っていらしたテーマは?

 幕末から明治時代にかけて活躍した「種痘医」の大野松齋ですね。たまたま漢方の研究をしているときに知った人物で、天然痘の予防のために並々ならぬ活躍した人です。天然痘の予防をしたいというまっすぐな気持ちで、身分の上下は関係なく、貧しい子どもたちには焼き芋を与えながら種痘をしていました。その働き方、生き方に興味を持ちましたが、あまり資料が残っていない。資料を探しに、東京都の公文書館や国会図書館にも通いましたが。

――それにしても、なんだって、そんなに色々集めてしまうんでしょう?

 なんででしょう? 私の父もコレクターだったみたいです。亡くなる前に、収集していた骨董や錦絵を譲り受けました。

――遺伝ですかね。息子さんも何か集めていらっしゃる?

 腕時計とか集めています。たいしたものじゃないとは思いますが(笑)。

オリンピックを前に住民運動にもかかわる

――ところで、最近はお忙しいようで。地元の道路建設に反対する住民運動もしていらっしゃる?

 そうなんです。いまはそっちが忙しくてね。いや、めちゃくちゃですよ。東京オリンピックの開発のどさくさで、突然、終戦直後の、70年以上前につくられたと称する都市計画が復活して事業認可されちゃったんですから。それで、2020年のオリンピックまでに道路を拡張するから「立ち退いてください」って話ですからね。

 そもそも事業認可する根拠としている終戦直後の計画図面も、あちこち行って調べましたが残っていません。結局、住民が団結し、国を相手に事業認可の取り消しを求める訴訟を起こしました。住民も高齢化しています。追い出されても、行くところがありません。

――なるほど……。

 私の方からも、ちょっといいですか?

――はい。

 これで私がピンク好きのオヤジではないことがわかってもらえましたでしょうか?今日、取材をお受けしたのも、ピンクチラシの本は出しましたが、別に私が特にエロ好きとか、風俗好きとかじゃないことをわかっていただきたい、というのが趣旨です(笑)。私は単なるコレクター。そこは再度、念を押しておきますよ。

(取材を終えて)
 「これを見てください」とご自宅で拝見したのは、なんと、氷で冷やす昔の冷蔵庫だった。食事をするときには江戸時代の食器も使っているという。昔はゲンカクだったというご夫人が柔和な笑顔で淹れてくださる温かい緑茶が、おいしかった。