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独裁の深い傷 絞り出される哀歌 朝日新聞読書面書評から

評者: 西崎文子 / 朝⽇新聞掲載:2019年02月09日
帰還 父と息子を分かつ国 著者:ヒシャーム・マタール 出版社:人文書院 ジャンル:伝記

ISBN: 9784409130414
発売⽇: 2018/11/28
サイズ: 20cm/309p

帰還 父と息子を分かつ国 [著]ヒシャーム・マタール

 「父親と息子を引き離す国では、多くの旅人が道を見失った。そこではすぐに迷ってしまう」
 この言葉を胸に、何度も読み返したい本である。著者はリビア人の両親を持ち、欧米で活躍する作家。その父は、カダフィ独裁に対する反体制派の指導者で、1990年に亡命先のエジプトで拉致され、リビア・トリポリのアブサリム刑務所に移送されたまま生死不明となった。カダフィ政権の崩壊を受け、2012年春、著者は父の消息を求めて希望と不安の拮抗する故国へと向かう。これは、ホメロスの叙事詩オデュッセイアのように、行方の知れぬ父を求めて彷徨う息子の哀歌である。
 父が姿を消した時、著者は大学生でロンドンにいた。リビア政府の目を盗み、彼は兄や母と共に父を探し求める。3通の手紙が届くが、95年以降それも途絶えた。アブサリムで受刑者1270人が虐殺されたのは翌年である。その後、家族に残されたのは父親不在の年月。時間がただ堆積する。
 父への憧憬は、リビアへの憧憬と重なる。33年ぶりに訪れたベンガジの開放的な街並みや、溢れる光、波の音は限りなく美しい。しかし、それはカダフィ統治下のリビアへの深い恨みと表裏一体だ。強い緊張が精神に負荷をかける。著者は刑務所には足を踏み入れないと決意するが、それは、その場に身を置いて父の気配を感じたら、自分が永遠に壊れてしまうかもしれないと恐れるからだ。
 父の消息は杳としてつかめないが、同じころ逮捕された叔父やいとこは、リビアが西欧と接近する中、2011年に釈放された。彼らとの再会は、空白を埋める大切な時間だ。叔父が伝えたかったのは、自分は挫かれていないということ、そして著者の父のゆるぎない姿だ。しかし、アブサリムで21年を過ごした叔父たちと、故国を離れた著者との間に越えられない溝があるのも否定できない。
 苦しみは心臓を縮ませる、と著者はいう。喪失そのものが、それ自体の力と気性を持ち、愛情と怒りで人をがんじがらめにしてしまう、とも。残された傷は果てしなく深い。追い討ちをかけるのが、叔父たちが釈放されたとき、「偉大なる指導者」に逆らったことを謝罪する文章に署名させられたとの新事実だ。著者がカダフィの息子に働きかけ実現した釈放が、謝罪文と引きかえだったとは。叔父たちを気遣いながらも、すべてが汚れてしまったという著者の失意はいかほどだろう?
 苦しみは行き場を失い漂流する。しかし、そこから絞り出された回想だからこそ、心を打つのだろう。内戦の再発を示唆する暗い余韻と、叙情性に溢れた珠玉の一冊である。翻訳も素晴らしい。
    ◇
 Hisham Matar 1970年、米国に生まれる。幼少期をトリポリ、カイロで過ごし、86年以降は英国在住。2006年、『リビアの小さな赤い実』で小説家としてデビュー。本書でピュリツァー賞(伝記部門)を受賞。