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恨み言びっしりの絵馬、ロリータ服の水子地蔵……現代日本に息づく奇妙で真剣な信仰に迫る 小嶋独観「奉納百景」

文:ハコオトコ 写真:斉藤順子

あの世での“バーチャル結婚式”描く「ムカサリ絵馬」

――本書では小嶋さんが全国の神社仏閣、ちょっと分類不能な宗教施設にまで訪れて取材したいろいろな「奉納物」を紹介しています。メジャーな絵馬から帽子などの日用品、動物の骨に至るまで奉納された光景はいずれも奇妙で荘厳でもあります。普段私たちが参拝する際にあまり気にしていない奉納物を追いかけるようになったきっかけは何でしょうか?

 もともと変わったお寺を巡るのが好きでした。以前は仏像や建物といった面から寺社を面白がっていましたが、奉納物に注目するきっかけとなったのが、20年近く前に出会った「ムカサリ絵馬」です。これはショッキングだった。

――若くして未婚で亡くなった我が子のために、親が「結婚式の様子」を描いた絵を奉納する山形・村上地方の風習ですね。本書には絵の絵馬だけでなく、どこからか切り取ってきたような大人の花嫁と花婿の写真に、花婿の顔の部分だけ我が子とみられる幼児の頭を合成した物も載っています。親御さんを思うと切ない風習ですが、正直これはちょっとゾクっとしてしまい……。

 これらは結婚しないで亡くなった人のための、あの世での“バーチャル結婚式”なのです。人がいないようなお堂の中で、壁を埋め尽くすようにムカサリ絵馬が飾ってある。絵馬1枚の持つ(インパクトの)強さと同時に、それらがたくさんあることで呪術的なパワーのようなものを物凄く感じましたね。そこから奉納物にのめり込み、約20年いろんな寺社を見て回りました。ある程度数がたまり、2017年に写真展を開催したのをきっかけに出版が決まりました。

山形県村山地方に伝わる「ムカサリ絵馬」。未婚で亡くなった我が子のあの世での「結婚式」の絵を奉納する。これは合成写真のタイプ
山形県村山地方に伝わる「ムカサリ絵馬」。未婚で亡くなった我が子のあの世での「結婚式」の絵を奉納する。これは合成写真のタイプ

――20年前と言えばインターネットもそれほど普及してなかったと思うのですが、どうやって地方の奇妙な奉納物を見つけてきたのですか?

 市町村の発行している観光パンフレットやガイドブック、地元で出されている書籍などを参考にしてきました。基本的には家族旅行で(奉納物のある寺社を)訪れています。最近ではネットも見ますが、やはり専ら紙の情報を参考にしていますね。

――本書の特徴として、同じ奉納物がとにかく「いっぱい」集められた写真が目立ちますね。

 そういう意味でインパクトがあるのが、牛の鼻輪を集めた「鼻ぐり塚」(岡山市)です。

――食用に殺された牛を供養するため鼻輪を集めた、塚というより“山”ですね。本書によると鼻輪の数は680万個以上、年間数万個単位で奉納されるとか……。しかも異様にカラフルです。

 牛の鼻輪という物はもともと白色だったのですが、最近は牛の等級や種類で色分けされるようになり、(塚も)カラフルになったのです。ここは「福田海」という新興宗教の教祖が始めたものですが、この方もこんなにカラフルになるとは思っていなかったでしょうね。

 (奉納物は) 1つ2つ並んでいるだけではそこまでインパクトがありませんが、これだけ数が集まると別の意味が出てくると思うのです。1つ1つにも強い思いがあるんでしょうが、それが堆積することで、思いの“総量”がいっぺんに迫ってくる圧力みたいなものがある。感じ方が全然違うのです。

大木に刺さる無数の鎌

――表紙にもなった、無数の鎌が大木に刺さった「丹生酒殿神社鎌八幡」(和歌山県かつらぎ町)は、知らずに遭遇したら腰を抜かしそうです。

 確かに一見オカルトっぽくて怖いですね。鎌と言うと「縁切り」をイメージしますが、ここで願われている内容は「健康祈願」「五穀豊穣」とか、意外と穏健でぼんやりしたものです。刺した鎌が木に飲み込まれていくと願いが叶うと言われているので、すごく時間がかかる訳ですね。縁切りとか目先の短期的な願いは難しくなってくる。

丹生酒殿神社(和歌山県かつらぎ町)境内にある大量の鎌が刺さった神木「鎌八幡」
丹生酒殿神社(和歌山県かつらぎ町)境内にある大量の鎌が刺さった神木「鎌八幡」

――その縁切り関係の奉納もいくつか出てきます。東京都内では、板橋区の神社「縁切り榎」などが縁切りスポットとして有名ですが、本書で紹介される寺社はさらに強烈です。

 縁切り榎は絵馬もそこまで大量に置いてありませんが、門田稲荷(栃木県足利市)は奉納スペースが広く、絵馬もいっぱいかかっています。えげつない内容も多いですね。普通(の縁切りスポット)では男女の内容ばかりなのですが、ここではいじめとか人間関係のトラブルが多い。書かれている口調も激しい傾向にあります。

――こう見ていくと、「日本人が寺社に出向くのは法事や正月くらい」という先入観とは裏腹に、実は今も叶うと信じて真剣に神仏に願いを託している現代人の姿が浮かび上がってきます。

 日本人を無宗教だと考えたり、宗教に熱心でないとみなしたりする考えは、宗教を「上から見た」目線から出てくるのだと思います。庶民が神仏にすがる理由は、宗教側がやろうとしていることと実はちょっとズレているものです。庶民が神様にお願いする内容はある意味、自己中なものが多い。言い方が悪いのですが、自分勝手に神仏を利用している部分があるのです。

 庶民にとっては(信仰対象が)神道か仏教なのかもごちゃ混ぜです。近所の「拝み屋さん」のような民間の宗教者に、神道や仏教といった区切りはない。あくまで、「お金を儲けたい」といった下世話な願いを叶えてくれるのがそういう人たちです。彼らにすがる人々にとって、神道だとかキリスト教だとかは関係ない。自分を救ってくれれば誰でもいいのです。

奉納する人の身になって読み解く

――そのように奉納物を読み解く小嶋さんの目線も、あくまで奉じる側である庶民、つまり「下から」ですね。寺社の信仰の由来について史料から考察しつつも、最終的には「奉納した人はこう思っていたのでは」と、願いを捧げた人間の気持ちになって推測している点が一般的な研究書とは少し違っているように感じます。

 私は研究者ではありません。(考察の)大体の部分は想像で補うしかない。「もし自分が何かに困って神様にすがるとしたら」と、奉納する人の身になって考えることでいろんな物が見えてくるのです。最初は(奉納物を)客観的に見て「なんだこれ、変だな」と思うのですが、「本当に自分が病気に困っているとしたら」などと、奉納する人に寄り添って考えてみる。真剣にお願いしているからこそ、このように奉納したんだな、と分かるのです。

14歳が奉納した「早く犯人が見つかりますように」の紙

――確かに一見異様な奉納物は多いですね。眼病平癒にご利益があるとされる油山寺(静岡県袋井市)には、「目」や「め」の文字をびっしり書き込んだ紙や絵馬があります。病気の人には書くのも大変だったでしょうに……。高塚愛宕地蔵尊(大分県日田市)にも、願い事をたくさん書いた紙を奉納する風習がありますね。「早く犯人が見つかりますように」と何度も書かれた紙が印象的でした。

 目の祈願文は確かに「目が悪いのにわざわざ……」とも思いますが、(病人が)そうせざるを得なかったんだな、とも思うのです。「早く犯人が~」の紙は、14歳の子どもが書いたと推測されます。紙の裏にドラマがあったんでしょうね。

 これらの祈願文は、本当は自分の年の数だけ願いを書くのですが、このお約束が分からず紙一杯に大量に書いたものもあります。子どもの「子」の文字だけ大量に書いた紙もありました。本来のルールから逸脱してはいますが、そういう物こそが奉納した人の心情をより伝えてくれる、見る者の心を打つ奉納物だと思うのです。

油山寺(静岡県袋井市)に奉納された、眼病平癒を願って大量の「目」を書き連ねた祈願文
油山寺(静岡県袋井市)に奉納された、眼病平癒を願って大量の「目」を書き連ねた祈願文

――中には、不思議なことに近年になって盛り上がった風習もありますね。

 先ほど出たムカサリ絵馬は民俗学の世界では比較的古くから知られていましたが、もともとは山形の人が細々とやっている習俗でした。近年テレビで取り上げられて、全国から奉納する人が増えたそうです。絵馬の量は10年前のピークを過ぎて減りましたが、それでも毎年かなりの数が奉納されている。

 信仰とは社会的な影響も大きく受けるものです。例えば岩手県遠野市には「供養絵額」を奉納する習俗がありました。幕末から明治にかけてのもので、亡くなった人がおいしい料理を食べているような絵を描くのです。これは大正でぱたっと無くなりました。肖像画が普及したからです。昭和になるとそれが遺影になった。

 実は、水子信仰も(中絶制限について活発に議論された)ウーマンリブ運動が盛んになった時代(1960年代以降)に起きたものです。ニーズがない奉納は廃れ、逆にうまくはまった習俗だけが後々も生き残っていく。時代時代で変化していく習俗すらあります。

「ロリータ地蔵」にファンシーな「おっぱい絵馬」

――文殊院(福岡県篠栗町)で小嶋さんが見た、水子地蔵にロリータファッションを着せた「ロリータ地蔵」が典型ですね。ファッション感覚というよりは、服を用意した人の哀切な思いをどこか感じる写真でした。

 他にもファンシーな「おっぱい絵馬」(山口県周南市の川崎観音)があります。女性が「お乳が出ますように」とか「子供ができますように」と奉納するのですが、絵馬のおっぱいの部分が「顔」風にデコられている物があったのです。これらの担い手は「ヤンママ」のような若い女性でしょう。こうして奉納物は時代ごとに変化していく。

 若い人が昔からの習俗に関わっていくことは、私はとてもいいことだと思っています。それだけ信仰や習俗が実効性を持って存在し、若い人も自ら参加しようとしている訳ですから。お年寄りは顔をしかめるかもしれませんが。

――現代で新たに「創造」されてしまった信仰すら登場しますね。宝くじ当選のご利益があるという宝来宝来神社(熊本県南阿蘇村)がまつられた“由緒”は、なんと2004年に起きた事件だったとのこと。いかにも絵本の昔話に出てきそうな逸話なのに……。

 重機の運転手が巨石を壊そうとしたけれどなかなか動かず、「岩を動かさずにまつれば宝くじが当たる」と神託を受けた、という話ですね。ここは山中の何もないところに、寺社建築のプロでない人が作った赤い山小屋のような建物が並んでいるのですが、不思議なのは来る人も真剣でなく、レジャー感覚で拝んでいる点です。「ホギホギ」と言いながら石の周りを回れと書かれていて、みんな恥ずかしそうに従っている。

 このように、新しい信仰スポットというものは実は次から次に誕生しているのです。以前は注目されなかった場所がパワースポットになって大勢の人が押し寄せるということは今もよくあるでしょう。江戸時代でも、ご利益があるとされた「流行り神」に突如みんなが拝みに来る現象が起きました。

主体はあくまで「奉納する側」

――今も昔も、切実な願いを奉納に託す人の心理は変わっていないのですね。

 奉納という習俗の主体はあくまで「奉納する側」であって、寺社ではないのです。彼らが氏子や檀家にやれと言っている訳ではなく、あくまで自主的に奉納しようという運動なのですから。“実効性”が無くなれば廃れる。逆に言えば今も続く奉納の習俗は、何かしらの実効性が存在しているのかもしれません。「昔から続いているから」行われている訳ではなく、みんな実際に何かに困ったり悩んだりして、神仏にすがろうと奉納しているのです。

 ロリータ地蔵も、本来は単によだれ掛けを掛ければ良かったのに(ロリータ服を)フルセットで持ってきている。何かしらの「重い想い」が込められているのだと思います。このように、本書の奉納物は手間がかかっているケースが多いですね。お寺で売っている物より、実際に描かれた絵などは用意するのも面倒くさい。それだけ願いを抱いた人が真剣だということでしょう。

文殊院(福岡県篠栗町)の、ロリータファッションで着飾られた水子地蔵
文殊院(福岡県篠栗町)の、ロリータファッションで着飾られた水子地蔵

――一方でこれだけ科学が発展した今、現代日本人には「願うだけ無駄では」と合理的に考えてしまう側面も否定しきれないと思います。果たして奉納という習俗が今後、科学の光によって消えてしまう可能性もあるのではないでしょうか?

 例えば、医学が発展すればするほど新しい病気が見つかっていくでしょう。科学がフォローできない領域とのいたちごっこは今後も続くと思います。いくら科学が進歩しても、解決できない「外側」の部分は無くならない。そして人々はそういった領域で神仏とか、あるいは有難いお水というようなよく分からない民間療法かもしれませんが、すがるのではないでしょうか。

奉納物とは「人間の内側にある何か」

――ちなみに小嶋さん自身は神仏や奉納の霊験のようなものを信じているのでしょうか?

 実は、私自身はそんなに信心深くないのです。取材で(寺社に)行ったらちゃんとお参りさせていただきますし、お参りする方々の信仰心は最大限尊重しますが。だからこそ、「奉納」を客観的に見ることができていると思います。

――あくまで信仰心からではなく、奉納物を20年も追い求めてきた執念の源泉は何なのでしょうか。

 私は人間の業のような物を知りたい。「人間の内側にある何か」を見たいんだと思うのです。神様に奉納するということはいわば“オフィシャル”な行為ですが、奉納された(絵馬などの)文章にこそ、実は生々しくリアルな内容が存在する気がしています。人間の内側に秘めた物がむき出しになっている、それが奉納物なのではないでしょうか。