ISBN: 9784065397107
発売⽇: 2025/06/26
サイズ: 14.1×19.5cm/304p
「帰れない探偵」 [著]柴崎友香
今から十年くらいあとの話、と前置きされて始まるのは、故郷の国を離れ探偵として身を立てる「わたし」の一風変わった冒険譚(たん)。探偵を主人公にした小説は数多(あまた)あれど、彼女のように「帰れない」状態にある探偵は珍しいだろう。念願叶(かな)って構えた自宅兼事務所がある日路地ごと消え失せてしまったのだ。家だけでなく彼女は国にも帰れない。探偵教育を受けるため十年前に離れた国は、災害を機に統治体制を変え、世界に対し自ら閉じることを選んだ。
探偵として人々や土地の過去を調査する「わたし」の未来を過去形で今語る、という入りくんだ時制のせいなのか。描かれる世界の細部は精緻(せいち)なのに、同時にすべてがごく細かなモザイクでぼかされているような奇妙な視界のブレを覚える。滞在先の国名も言語も明示されず、依頼者名も仮名。匿名の坂を、路地を、島を、砂漠を彼女は歩き回り、過去のほどけ目に足を取られる。どこにも紐(ひも)づけられず、流れ着いた先でその場を即興的に生きるしかない「わたし」の軌跡の前では、「国民」や「国家」などという言葉は人間の生々しい経験を覆う古いかさぶたに過ぎないようだ。
一方街々の図書館で新旧の地図を開くたび、彼女はかすかな違和感を抱かずにはいられない。人々の日常的選択から台風の軌跡まで情報として均一に処理するテクノロジーが席巻する世界で、人は何を記憶することを選び、何を忘れることを選ぶのか。記憶の取捨で穴だらけになっていく時空とそこに呆然(ぼうぜん)と佇(たたず)む「わたし」を救い出すように、いつもどこからか音楽が鳴り響く。「帰れない」状態にある人間に、音楽は緯度経度では測れないべつの時空を開いていく。
その音楽を媒介に過去と未来が手を取りあい、限りなく開かれた「今」を駆動させるラストシーンに胸躍った。一方向だけに流れるだけではない時のありかたが、かくも鮮烈にここにある。
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しばさき・ともか 1973年生まれ。小説家。2014年『春の庭』で芥川賞。24年『続きと始まり』で谷崎潤一郎賞、芸術選奨文部科学大臣賞。ほかに『きょうのできごと』『その街の今は』『百年と一日』など。