十代で宇多田ヒカルさんを好きになったきっかけは、曲に惹かれたからではなく、彼女が「自分の言葉」を持っていたからだった。今でこそ彼女の楽曲の良さを味わうことができるようになったが、当時のぼくは文章を書くことや言葉の使い方に強い興味があったので、彼女の音楽に注意深く耳を傾けることをしていなかったのだ。
思えば、宇多田さんの発する言葉は、デビュー当時から周りとはちょっと違っていた。帰国子女ということもあってか、目上の人にもタメ口だったし、十五歳にして、えらく大人びた歌詞を書いていた。そして一方では、デビューアルバムが八百万枚も売れたのに、調子に乗っている感じがまるでなかった。たまにテレビなどに出演して話すときも、いたって普通の感覚を持ったまま、自分の思うことを素直に話しているように見えた。
デビューから数年経っても、宇多田さんは変わらず自分の言葉を持ち続けていた。特にぼくは彼女の書く文章が大好きだった。あれはたしかぼくが十九歳の頃だったと思うが、当時、宇多田さんのホームページでは、宇多田さん本人が定期的にメッセージを書いていて、ぼくはそれが更新されるのを非常に楽しみにしていた。彼女の書く文章は、彼女の話し言葉と同じで飾り気がなく、いつも微量のユーモアを含んでいた。そして、これは彼女の頭の良さを感じるところなのだが、自分の考えや気持ちを誰にでもわかる平易な言葉で過不足なく伝えられているように思えた。ぼくはそのとき、まだまだ自分の書くものを心から面白いと思える幸せな年齢だったのだが、それでもなお、彼女の文章は当時のぼくにとって理想の文章だった。自分もこんなふうに言葉を届けられたらいいのになと若干の嫉妬を覚えながら読んでいた。
たぶん、そんな憧れの人に認めてもらいたかったのだろう。ぼくは趣味で書いていたショートストーリーのようなものを、宇多田さんのホームページにファンメッセージとして送るようになった。自分の実力を見てほしい気持ちと、彼女がくすりとでも笑ってくれればいいなという期待を込めて、全部で十通近く送った記憶がある。今思えば、相当恥ずかしいことをしているし、ご迷惑をおかけしたなと反省しているのだが、結果的には、ぼくはその経験があったから作家としてデビューすることができたのだと思っている。というのは、ぼくは数ヶ月後に初めて小説を書いて公募の文学賞に応募したのだが、そのとき体に残っていたのは、宇多田さんに向けて文章を書いていたときの感覚だったからだ。たとえ読んでもらえるかわからなくても、きっと楽しんでもらえると強く信じて、何かを書いて送ること。その物書きの基礎とも言うべき「折れない気持ち」がなかったら、ぼくはおそらく、受賞どころか一次審査にも引っかからなかっただろう。
音楽について書く回で、そこに一切触れないのもどうかと思うが、十代のぼくは本当に音楽に疎かったので、こういう形で書かせてもらった。宇多田ヒカルさんは三十五歳になった今でも変わらず好きな人だ。