――もう一気読みでした。以前「婚活の話を書いている」とうかがった時、勝手に主人公が婚活をして遭遇するさまざまな出来事を書いた小説をイメージしたんです。全然違いましたね。そもそもなぜ、婚活の話を書こうと思ったのでしょうか。
私が30代半ばを過ぎたからか、周囲で婚活の話を聞くことが多くなったんです。私自身は未経験ですが、経験者の話を聞いたり、「婚活」に関連する記事や本を目にするうちに、婚活って、それまでの自分のいろんな価値観や生き方がすべて出てくる場なんだな、と感じるようになりました。2009年に、『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』という、地方と都会の格差、女性同士の格差や母娘問題などをテーマにした小説を書きましたが、婚活の問題を考えると、あの小説に出てきた女性たちに結びついていくんですよ。10年前にあの話の中で書いたような女性たちの時間が今でも流れているんだな、って。書いた時は私は29歳くらいで地方に住んでいて、自分の年代について思っていたことを全部書き切った感がありました。でも、まだ続いている。ならば彼女たちが今直面している、婚活というテーマで書いてみたいと思いました。それも今回は男性目線で書きたい、と。
――主人公は男性ですね。東京に暮らす西澤架(にしざわ・かける)、39歳。婚活アプリで知り合った女性、坂庭真実(さかにわ・まみ)と交際していますが、彼女がストーカー被害にあった末に姿を消してしまうという、衝撃的な始まりです。婚活を書くといっても辻村さんなだけに、これはミステリなのだな、と。
テーマそのものを最初から書くのではなく、そこから起こった事件から始めて、まず読者に物語のただ中に入ってもらいたいんですよね。目をそらせなくなってほしいんです。エンタメであると同時にミステリを書くことを考えた時、この構成以外はありえないと考えました。
――女性ではなく、男性を主人公にしたのはどうしてですか。
『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』を書いた時は、女性の辛さにしか目がいっていなかったんです。でも今は、男性は男性で辛いだろうと思う。たとえば地方に住んでいると、職探しにしてもどのお店に行くかにしても、選択肢が少ないのは男性も女性も同じですよね。それで、男性たちのことも書きたいと思いました。
それと、自分が東京で暮らすようになってみると、都会だから楽なわけではないということも気づきました。それで東京暮らしの架という存在が生まれました。都会に住み、恋愛でのヒエラルキーは上のほうで、選択肢はいっぱいあったはずなのに誰のことも選ばずにきて、結果的に本当に手にしたかったものを失ってしまう。そういう人って多いと思うんです。そこから「選べたはずなのに選ばなかった架」「選べなかった真実」という二人の人物像が出来上がっていきました。
――架は、過去に結婚を決断できずに恋人に去られた過去があり、それを引きずっている。スマホの婚活アプリを使ってもピンとくる人がいなくて、何十人と会ってきたんですよね。
架は社交的なので、何十人と会うタイプだろうと思っていました。アプリは気軽にできるぶん、結婚に対する意識が希薄になって、デート感覚なんですよね。この小説を書いて婚活に詳しくなった今、私が架にアドバイスしたいのは「アプリをやめて結婚相談所に行け!」ということです(笑)。アプリって自分一人でできるので、世話を焼いてくれる人がいない。でも間に立って、つついてくれたりアドバイスをしてくれる人がいたほうが話が進みますから。まあ、架にはアプリで婚活する以外の選択肢はなかったと思いますが。
一人でいるのは怖いし、周りの結婚した友達は羨ましいけれど、それでも結婚を決断できないのは、架の自己愛が邪魔になっているんですよね。作中の言葉で共感してくれた読者が多かったのは「(婚活がうまくいかない人は)皆さん、謙虚だし、自己評価が低い一方で、自己愛の方はとても強いんです」という、小野里さんという結婚相談所の仲人をしている女性の言葉。それは架にもあてはまります。多くは望んでいないつもりでも、自分の人生に対する値打ちや価値観が高くて、「この子でいいのかな」「もっと他にいるんじゃないのかな」と思ってしまう。自分の人生の主人公は自分で、人生は一度しかないから、そのストーリーが傷つくことがあってはならないという意識がある。だから婚活アプリで真実と出会ったのに、つきあって2年間もずるずると結婚を先延ばしにしている。
――一方の真実は群馬県の前橋市の出身。そこで就職して婚活もしていましたが、30歳を過ぎてから上京して転職、婚活を始めて架と出会ったという。前橋市の出身にしたのはどうしてですか。
『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』では私の出身地である山梨を舞台に書きましたが、その後、自分が抱いていた感覚は他の多くの地方の人たちが共有しているものだと実感したんです。何につけても東京でのデータがスタンダートと思われがちですが、東京と一部の大都市のほうが異質だという感覚を持っている地方の人はいっぱいいる。それでまた別の地方都市を舞台にしようと考え、東京からの距離もちょうどよく、地の利のある前橋が浮かびました。もともと群馬県出身の友達が多くて遊びに行く機会も多かったですし、今回も改めて取材に行って、とても楽しかったです(笑)。
――真実の母親は堅実な生き方を娘にさせたくて、娘が地元のお嬢様大学に通っていたことを誇りに思うようなタイプ。真実もそれに従って生きてきたんですよね。
昔なら、地方で親の言うことを聞いて真面目でいい子に育った真実のような人は、ある程度の歳になったら親の勧めでお見合いをして結婚して「これが人生なんだ」と思って生きていったと思うんです。でも今は恋愛結婚こそが尊い、恋愛をしなくては、という空気がなんとなくありますよね。そのなかで真実のように社会人になっても「外泊は駄目だ」と言われて、親の望む「いい子」のまま自立する機会がなかった人は、そこから自分で何かを選び取るのがすごくきついと思うんです。真実の姉の希実は反発して親離れしますが、真実のような子は、東京に出ていく時も反発からではなく、「子離れさせてあげられなかった」という罪悪感を抱きながら出ていっている。
でも、この母親が取り立てて毒親というわけではなく、本当に普通の人なんだと思うんです。しっかりしていて、自分の家の評価が高くて、自分の持っているサンプル例が少ないのに、なんでも自分の物差しで測って「この子に教えてあげなきゃ」と思っている。架のように奔放に育ててもらった身からすれば、すごく奇異なものに見えるでしょうね。
――真実の失踪後、架はいわば探偵役となり、犯人かもしれないストーカーを捜すわけですよね。真実の実家と連絡を取るなかで、彼女が前橋にいた頃の婚活の相手が犯人ではないかと思った彼は、結婚相談所の所長である女性、小野里に会いにいく。この小野里が語る婚活話がものすごくリアルで、架とのやりとりが一言一句面白かったです。
架は小野里さんのことを「田舎のお見合いおばさん」のイメージで見くびって会いにいくんですよね。でも会ってみると地方で信頼を得ているだけあって、自分の言葉を持った人で、架は横っ面を張られるような思いをする。都会も地方もどちらかが優れているというわけではないことを、最初にうちに架に感じてほしかったので、早い段階であのシーンを出しました。
――「結婚相談所は最後の手段ではなく最初の手段」「うまくいくのは、自分が欲しいものがちゃんとわかっている人」「親御さんに言われて婚活される方の大半は、結婚などせずに、このままずっと変わりたくない、というのが本音でしょう」……小野里さんがズバズバ言うことすべてがリアルですが、結婚相談所の方に取材されたのですか?
していないんですよ。私は地方に知り合いが多いのですが、実際に地方で婚活した子の話を参考にしたり、地方で権力のある中高年の女性と話していて感じたことなど、複合的に考えているうちに小野里さんが生まれました。
彼女が語っていることもすべて私の考えというわけではなく、小野里さんなら言いそう、ということを書いています。なんだか、小野里さんが自分に降りてきた感じでした(笑)。今回は、他の人に関してもそうですね。『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』の時は肩入れしたい人物がいたり、作者の考えが反映されている部分があったんですが、今回はもう少し離れた場所にいるような感覚で、誰の考えが私に近いということがなくなった気がします。
――取材していないとはびっくりでした。小野里さんはジェーン・オースティンの『高慢と偏見』についても触れますよね。そして「現代の結婚がうまくいかない理由は、『傲慢さと善良さ』にあるような気がするんです」と語る。
今まで読んできて感銘を受けた結婚小説って何だろうと考えた時に『高慢と偏見』が浮かびました。恋愛小説の名作ですが、18~19世紀のイギリスは恋愛=結婚ですし、主人公の母親が娘の4人姉妹を誰とどう結婚させようか心を砕く様子は結婚小説とも受け取れますよね。昔読んだ時は漠然と、男性側はプライドが高くて高慢で、女性側は身分の高い男性に対して偏見がある、という話だと感じていたんです。でも大人になって思い返してみると、一人が高慢で一人が偏見ということではなく、互いに高慢であり、互いに偏見を持っているんだと気づきました。
それで、現代の婚活や結婚に対して障害になる要素を考えてみたんです。「傲慢」というのはよく言われることですよね。もうひとつを探そうと思って考えて出てきたのが「善良」でした。
架たちに関しても、最初はモテてきた架のほうは傲慢で、親の言う通りにして育ってきた真実は善良だという印象でしたが、書けば書くほど真実の側にも傲慢さがあるし、一方、架の側も、実は鈍感という名の善良だったりする。
――「傲慢」と「善良」という言葉は作中に何度も出てきますが、その都度、誰のどういうところを指して言っているのかが違っていくのが非常に面白くて。
連載している頃、「なんであんな怖いタイトルにしたの?」と訊かれたりもしました(笑)。説明すると、「傲慢は分かるけれど、なんで善良であることが婚活の障害になるの?」「善良な人がいいに決まってるじゃない」と言われることも。だけど、真面目で実直な人よりも、社交的で軽薄な人間のほうが実はモテてしまう現実ってありますよね。善良だからといってモテるわけではない。
それに善良って、言い換えると、鈍感だったり無知であったり、思考停止していることと結びついていることも多い。善良だという印象を持たれがちな人って、びっくりするほど悪意を知らなったりもすると思うんです。作中にも書きましたが、悪意って誰も教えてくれないんです。人間関係のなかでそれを学ばずにきた善良な人は、悪意がある人間というのは一部のモンスターみたいな人のことだと思っていて、一般の人たちは違うと思い込んでいる。
――真実がまさにそういう子ですよね。
連載を読んでくれていた他社の女性編集者二人が、話の前半の頃に「真実ってこうだよね」「真相はこうだよね」って、話していたらしいんです。後半で「思った通り!」とドヤ顔できるかと思っていたら、それどころか「あんたたち真実のこと見下していたでしょう」と、壮絶なブーメランが返ってきた気がしたと話してくれて。それがとても嬉しかったです(笑)。
――架の女友達、美奈子たちも、ちょっと真実を見下している様子ですが、架はそのことに気づいていませんよね。
架はそんなふうに鈍感だから、既婚の女友達から人気があるんですよね。男女問わず感じることですが、既婚の人が未婚の異性の友達に対して、恋愛感情はないけれどなんとなく所有欲を持つ感覚ってあると思うんです。美奈子たちは架に対してそういう目があるから、真実に対してちょっと辛辣なところがある。
――美奈子たちに「あの子と結婚したい気持ち、今、何パーセント?」と訊かれた架が「――七十パーセントくらいかな」と答えたら、「それはそのまま、架が真実ちゃんにつけた点数そのものだよ」と言われますよね。つまり、架が真実につけた点数は70点だ、と。ひどいですよね。あれは実際にある心理テストなんですか?
すごくひどいですよね。ああいう心理テストはないです。小野里さんも「無意識に自分はいくら、何点とつけた点数に見合う相手が来なければ、人は、“ピンとこない”と言います」と話す場面がありますし、書いているうちに自然と点数の話に繋がっていきました。
婚活をしている時のしんどさって、相手を点数化するつらさもあると思うんです。職場やクラスメイトとして知り合った相手なら、点数化することはしない。でも婚活だと、会ってすぐに「前に会った人と比べてこうだな」と比較したりして、無意識に点数をつける。それはしんどい作業でしょうね。架はたぶん、げんなりしながらもナチュラルにそういうこをとやってきている。真実もげんなりしていたけれど、「架くんに百点をつけられて選ばれた」と喜んでいる。
――「七十点だよ」と言われた架と、「百点だ」と思っている真実。残酷……。
その70点のことなんですが……。連載当初は女性編集者が担当だったんですが、彼女が産休に入ったので途中から年上の男性編集者が担当してくださったんです。それまでの女性編集者は真実のことも冷静に読んでくれていて、架のことも「ここが甘いですね」なんて感想をくれていて。でもその男性編集者は、「真実は七十点なんだよ」といった女友達に対して「ひどい」ではなく、「彼女たちが架を心配する気持ちも分かります」って感想をくれたんですよ。
――え、その方は彼女たちの発言にひと欠片の悪意もないと思ったのでしょうか。
きっとそうなのだと思うんです。でも、それこそが架の思考なんですよ。「善良」で優しい。だから、そこからはもう、この人から学べるところは全部学ぼうと思って先の展開は一切伝えずにいたら、やっぱりたくさん意外な反応があって。架について分かっていなかったことを教えてもらいました(笑)。
読んでくれた女性から意外と「架みたいな人がタイプです」という声もあって、現代のモテ男子が書けたという手応えがあります(笑)。これまで小説を書いてきて、どの担当者とも全力で走ってきましたが、今回ほどめぐり合わせの妙に感謝したことはないです。女性目線、男性目線が溶け込んだからこその小説になったと思います。
――そんなことが……(笑)。架とはまた違うタイプの男性も登場しますよね。真実が前橋にいた頃に婚活で会った男性二人にも、架は会いに行く。一人目の金居は高学歴だけれどもガサツで服装のセンスが悪い。二人目の花垣は、顔は整っているけれど無口でコミュニケーションがとれない。
最初はもっと多くの男性に会いに行かせようと思っていたんです。でもこれだけでも表現できることが沢山あるなと思って。彼らに関しては、都会で婚活をして「いい男がいない」という女の人たちに「お話にならない」と切って捨てられそうな男性たちの像でもあると思うんです。だけど、ではその彼らの幸せはどうしたらいいの、ということの方もこの話ではどうしても書きたかった。
読んだ人によって、感じ方は違うと思います。「金居にしておけばよかったのに」と思う人もいれば、「金居は絶対無理」という人もいるし、「花垣がいいじゃない」と思う人もいるはず。あと思うのは、金居や花垣も、職場で会っていたなら真実との間に恋が生まれる可能性もあったかもしれない、ということです。職場で仕事ぶりを見ていたなら「この人はガサツだけれどみんなから頼りにされているな」「朴訥としているけれど仕事が丁寧だな」と、魅力に気づいたかもしれない。なのに婚活の場では、会ってすぐに点数をつけなくてはいけない。それはしんどいですよね。
そういえば、読んでくださった方から「今回は男性が鈍感な人が多い印象ですが、あえてそういう人を選んだのですか」と言われました。選んだわけじゃないんですよね。私にしてみれば、「これが男子だ」という思いもちょっとあります(笑)。
――ふふ。ただ、架は真実を捜しまわるうちに、変わっていきますね。
一度大切な人を失って、そこから婚活の果てにようやくまた相手を見つけたのに「七十パーセント」などと言って結婚を引き延ばし、その相手を失って……地獄めぐりのような経験をしていて、かわいそうですよね(笑)。でも、大切な相手を2回も失わないと気づけないような男子でもあるんですよ。
ここを書けては本当によかった、と思う場面があるんです。真実が見つからないなか、前橋のショッピングモールでエスカレーターのそばのベンチに座って平凡な家族たちを見て、「このぼんやりした親子連れの群れの中に、オレは君と一緒に溶け込みたかったんだ」と思って泣く場面です。今まで自分がイケてないと思っていた、平凡に見える人たちの、その一人になりたかったと架は心の底から願う。場所は群馬のショッピングモールだし、大勢の人がいるけれど、たった一人の大切な人がいないためにそこが世界の果てみたいになっている。どこにでもある場所が世界の果てにもなる。その瞬間が書けるのが小説だなって思うんです。この先何年か経った後も、このシーンのことは何度も振り返る気がします。
自意識が肥大化した10代の子を主人公にして書いている時は、こうした「普通」の尊さに気づいたり、自分が「普通」という言葉に縛られていたと気づく場面はよく書きます。でも今回、大人を主人公にしてこういう場面にたどり着いたことに、すごく手応えを感じているんです。
――大人も自意識に縛られているということですよね。
そこから自立するのに遅すぎることはないですよね。今回は婚活の話を書きながらも、結果的に自立の話になっていきました。
それと、後半になって、ある人から架が「あなたたち大恋愛じゃない」と言われる場面がありますよね。婚活というと社会的な目的とか打算だと思われて恋だと認めてもらいにくいイメージがあったのですが、自然と「大恋愛」という言葉が出てきて、著者の私も「ああ」と思いました。
――それで惹句に「婚活小説」ではなく「“恋愛小説”」とあるのですか。
あえてそうしました。ただ、恋愛小説が苦手だという人もいるので、ちょっと言い過ぎたかなとも思っていて……(笑)。恋愛恋愛というわけじゃないけれど、自分がその言葉にたどり着けたという意味で、“”つきの“恋愛小説”という言い方をしています。
――後半には、真実視点のパートも登場しますね。彼女に何が起こったかはもちろん、本音も分かって読み応えがありました。もちろん、最終的にこの二人がどうなるかも気になりましたし。
ラストは漠然とこうなるんじゃないかな、と思いながら書き進めていきました。違う終わり方も考えていたんです。ただ、書き進めていくなかで、想像以上に真実が成長してくれた。自分と同じ価値観の人を求めていた彼女の考え方が変わっていくところが、彼女にとっての大きな成長だったと感じます。その成長があるからこそ、終盤の駅のシーンが書けたし、あそこは本当に書いていて気持ちが乗っていました。
自分の中の結婚観の変化にも気づきました。以前『本日は大安なり』という、結婚式場を舞台にした小説を書いた時は、結婚とは家族を巻き込んだ、家と家に祝福されるものと感じていたんですよね。でも今回書く中で、結婚って二人の意志だけでいいんじゃないかと思ったんです。親がどうのとかいうのではなく、人対人のことなんだと感じている自分に気づいて、びっくりしました。
――『本日は大安なり』は2011年の刊行ですね。それにしても『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』から10年で今年デビュー15周年ということは、あれってデビューしてまだ5年の時に書いたってことですよね。当時、集大成的な作品だって思いましたけれど。
私もあの時は集大成だと思っていましたけれど、まだまだその先がありましたね(笑)。『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』が直木賞にノミネートされて、「若くして駆け上がった…」みたいなことを言われ、自分では「そんなトントン拍子に駆け上がってないと思う!」って思っていたんです。だけど振り返ると、デビュー5年であの小説を書いたのは、ああ、頑張った、よくやったね、と感じます。あの時、賞に選ばれなくて「焦ることないからね」と周囲から言われても、実は「これが自分にとって最高の出来なのに、これ以上もう飛べない!」という気持ちだったんです。でも、今になるとみなさんが正しかったと思う。でも毎回毎回「これ以上は飛べない」というものを書いてきたから、今があるのかもしれないですね。
――だからこそ、この『傲慢と善良』が書けたといえますよね。作家生活15年周年については、どんな実感がありますか。
今まで、ずっと楽しかったです。毎回毎回新しいことに挑むなかで、最初の頃は編集者や読者から「辻村さんファンとしてこういうのが読みたい」「こういうのは辻村さんらしくない」と言われたりすると、「何が私らしいかは私が決める」と思っていました。けれど、今では読者の方も「これは黒辻村」「あれは白辻村」と言ってくれたりして、どんなものを書いても「これも辻村だ」と受け入れてもらえている。だから何を書くのも、昔のように怖くはなくなりました。何が辻村らしいのかは読者が決めることだと思えるようになったんです。読者を信頼できるようになってきた今、自分は本当に幸せな作家だと思います。失敗を恐れず、これからもできるだけ高く飛べる作家でありたいです。