平田オリザが読む
先月、樋口一葉の『たけくらべ』を取り上げた際に、「女郎や寺を継ぐという封建的な話が、なぜ人間の内面や近代的自我とつながるのか」とご質問を受けた。なるほど現代人から見れば、もっともな疑問だと思う。
いまを生きる多くの日本人にとって「自我」とは、自己についての抽象的で幅広い概念だろう。しかしこれが文学における「近代的自我」となると、意味が少し限定される。簡単に言えば、明治期の青年たちが、西洋の合理主義と古い体制に挟まれ、自己について考え苦悩する姿を一般に「近代的自我」と呼ぶ。そして、それを初めて小説という形にしたのが『舞姫』だった。
主人公太田豊太郎は、将来を嘱望されドイツに国費留学した官吏だったが、貧しい踊り子エリスと恋に落ちる。出世か恋愛かという選択だけではなく、彼は小さな新興国日本を背負って苦悩する。また主人公のモデルとなった森鷗外自身は、それに加えて、「森家」という巨大な存在が双肩にのしかかっていた。
この作品が書かれたのは明治二三年。新しい国の形がおぼろげながら見えてきた時代と言えるだろうか。このころ、一定の学問を修めた青年たちは、みな、何かに戸惑っていた。自分たちは近代国家を作り、その中で様々な「自由」を得たはずだった。努力すれば出世できる世の中、身分を超えた恋愛……。しかし一方で、彼らは自分たちが家や国家に強く縛られていることにも気がついていた。そして、その戸惑いを言葉にできないことに、さらに苛立(いらだ)っていた。
鷗外は、そこに言葉を与えた。文体はまだ古く美文調であったが、たしかに、そこに書かれている内容は、当時の青年なら誰もが共感できる苦悩だった。
一葉の発見は、この苦悩、「近代的自我」がエリートだけではなく、市井の人々にもあるのだという点だった。「学校」という近代的な装置の中で無邪気に遊ぶ子供たちも、やがて女郎屋や寺に回収されていく。『舞姫』と『たけくらべ』は、つがいのような作品だ。=朝日新聞2019年5月4日掲載