先日友人達と、「推し絵本作家はいる?」という話になった。「今はスズキコージ!」「うーん、中川李枝子かな」「ミッフィーじゃなくてうさこちゃんのブルーナ」「林明子かな~」「日本昔話や名作絵本しか読んでない」とみんな好きに話していたけれど、「私は断然、五味太郎」と言ったら、どこかから「だと思った」という返事。
いろんなところで言っているけど、絵本といえば「五味太郎」で、小さな頃に好きになって、今でもとても好きだ。
大人になってから読んだ彼の著書では、「絵本を作る」という単行本が、創作論としてとびきりの名著だと思っているし、そう思って図書館勤務時代、同僚に貸したことがある。「絶対に面白いから読んでみて」と。多分同僚はきちんとこの本を読んでくれて、けれど、私に返す時、「僕は、物を書く人間ではないので、ちょっと、よくわかりませんでした」と小さな声で言っていた。
その時私はいたく驚いたのだけれど、今になって思えば本当に、あまりに自分本位な、狭い世界で生きていたのだろう。
話を戻して、その「五味太郎」の絵本の中でも、特別好きだったのが、「海は広いね、おじいちゃん」だった。あらすじはシンプルで、おじいちゃんと男の子が海に行き、奇妙な出会いをし、そして帰る、それだけ……。
けれど、五味太郎らしいユーモアが詰まっていて、大人になった今でも、極上のショートショートを読んだような気持ちになる。
このエッセイを書くにあたって実家の本棚から引っ張り出して、娘に読ませながら母に尋ねたところ、買ってくれたのは私の祖父母だということだった。だとしたら、多分、選んでくれたのは読書が好きだった祖父だろう。「日本沈没」が書棚に並んでいた祖父なら容易に想像がつく。
あれは高校生の頃だっただろうか。ローカルテレビ番組の取材でおすすめの本を1冊挙げてくれといわれた時にも、この絵本を紹介した。その時も、今も、この本を紹介するのは、どことなく得意な気持ちになるし、それが、少し恥ずかしい。
小さな女の子だった私は、この本のユーモアをわかったような気持ちでいたし、そのことで周囲の大人からずいぶん褒められもしたことだろう。
この絵本の面白さはこのページ、このおじいちゃんが読んでいた本のタイトルにあらわれているし、それが普通のことじゃなくて、どんな特別なことがだったかは、帰り際の男の子の驚きでわかる……なんて得意げに語ったかもしれない。
こんな風に、物語の機微がわかるのは自分だけだって思った可能性もある。いや、確実に思った。なんて恥ずかしい。それこそ、同僚に困り顔をさせてしまった時のように。私は世界の広さを全然知らない。
恥ずかしい、けれど、だからといって、この本の良さはひとつも目減りしないだろう、とも思う。
夏になるたびに思い出す。この本のあの、かすかな苦みのある、皮肉めいたラストを。
パラソルに乗って、宇宙に行く、おじいちゃんのあの返答を。
小さな女の子だったあの頃も、自意識の塊だった十代も、そしてこれからも。この絵本が、私の一番の「大好き」だ。