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科学者のエロスにグッと みすず書房・市原加奈子さん

 20代の頃、目指していた研究の道に挫折したとき、本の編集という職業が突拍子もなく頭に浮かんだのは、本に救われてきた実感があるからだと思う。

 救われた中でも、ノーベル物理学賞で有名な朝永振一郎の「滞独日記(抄)」(『量子力学と私』所収)を初めて読んだときの驚きは忘れがたい。一見、泣き言めいた言葉の連続なのだ。「夜また計算にかかるがうまくいかない。苦しい」「苦しむ一方だ。どうして自分はこう頭が悪いのだろう」。決して、朝永が愚痴っぽい人だったわけではない。直接本人を知る人はみな「普段は洒脱(しゃだつ)な人で、研究会では鋭く厳しかった」と口を揃(そろ)える。こんな求道の人が自分を疑って煩悶(はんもん)するような文章に会うと、いつもグッときてしまう。

 ソクラテスによれば、愛(エロス)とは「美しいものを自分のものにしたい」という欲求のことで、その目的は「子をなすこと」(創造)だという。子を宿した者が美しいものに近づけず、子を生めないとき、彼は苦しむ。「滞独日記」はもう、なんというか、エロスの叫びそのものだ。

 「自然は、ぼうぜんとその中にひたっている方がよほど美しさを示すではないか。物理学の今の自然観などあまりに七面倒だ。……はたして他の欲望より、価値高いものであろうか」

 これほど直接にではないが、朝永の著作は『量子力学』『スピンはめぐる』のような教科書や研究書でさえこの意味のエロスに満ちている。そういう科学書を支えていきたい。情報だけでできた本はつまらない。=朝日新聞2019年5月15日掲載