本好きの人なら、ノンフィクション作家・北尾トロさんの名前を見たり聞いたり、著作を読んだことがある人、多いんじゃないか?
1999年3月、当時メジャーではなかったネット古書店をオープン。「ぼくはオンライン古本屋のおやじさん」(2000年/風塵社)を出版し、その後のネット古書店隆盛の一つのきっかけを作った。以降、本に関わるあれこれを多く書いている。
2006年には裁判傍聴記「裁判長!ここは懲役4年でどうすか」(文春文庫)がベストセラーに。裁判員制度が始まる少し前という絶妙なタイミングで、裁判傍聴という言葉がポピュラーになって実際に裁判傍聴を体験する人もいた。
最近では、「町中華」訪問記が大きな話題に。町中華という言葉も定着し、TVでも町中華特集をよく見る。すでに町中華本を2冊共著し、6月には単著の「夕陽に赤い町中華」(集英社インターナショナル)を出版する。
北尾トロさんはそうやって何かに興味を抱き、企画を立て、書き、本にし、そこからフォロワーが生まれることが度々ある。しかも、いつも楽しげで、いい加減に肩の力が抜け、同じライターからするとうらやましく、どうやって企画を産み、楽しく育てるのか興味が沸く。「北尾トロの企画力」……なんて書くと堅苦しいが、北尾トロさんはどうやって何かを好きになり、形にするのか? 本人に聞いてみた。
最初は企画を立てられなかった
「雑誌育ちでやってきたライターはみんなそうだと思うけど、編集者から必ず『企画を出して』と求められる。でも、駆け出しの頃は『たまには企画も出せよ』と言われても何も思いつけず、本当にぼんくらだった。何せ最初の頃はスキー雑誌やテニス雑誌で仕事をしていたものの、そもそもスキーやテニスに興味がなかったんだから」
大学卒業後、たまたま後輩から紹介された編集プロダクションに入ってライターになった。それが30才ぐらいになったとき、仕事を始めた当初から一緒にやってきたライター仲間の下関マグロさんが「このままじゃおもしろくない、なんか考えようぜ」と言い出して企画書を作る。
「作りながらもこりゃ駄目だなというのが分かって出さなかった。何せ頭で考えてるだけだからね。その頃作ったので覚えてるのは、『東京でゾンビ』って企画。『東京は眠らない街、深夜の情報だけで一冊出来る!』って息まいたけど、考えたらただの遊び場ガイド。それを『ゾンビなんだよ』なんて叫んでも、普段から夜遊びしてるわけじゃないし、そんな本があったら便利じゃないの?というだけで新しさもない」
企画を立てられないライターだったトロさん。しばらくしてスキーやテニスの専門誌の仕事は辞め、『裏モノの本』というムック・シリーズから声を掛けられて仕事を始め、そこで企画作りの根本に気づく。
「後に雑誌『裏モノ・ジャパン』を創刊する編集者から『自分が興味のあることをやってくれ』とピシッと言われた。ムックだから20本ぐらいの色んなライターの原稿が並び、面白いものとつまらないものの落差がはっきりする。文章力も大切だけど、それよりも本気度、知りたいという欲求が大事だって分かった。それで、『ダッチワイフと暮らす』とか、そんなやつをやった。3体、買ったんだよ。今でも覚えてる。一番安いのが7千円のトメ。一番高いのが7万円のサリー。真ん中は3万円ぐらいで、名前は忘れた。それぞれ擬人化し、一緒に暮らす以上は『名前がないと』って、自分で名前を付けた。トメはトメって顔をしてた」
オンライン古書店のおやじになるまで
裏モノで自分の興味を企画にすることを学び、1994年に総合文芸雑誌「ダ・ヴィンチ」が創刊されると、創刊号から毎月5ページの連載を始める。今も続くその連載では「本」にまつわる企画を次々打ち立て、そこから本格的に企画力が発揮されていく。
「コミケのことを知って参加したいと思い、『廃本研究』という本を作った、1998年かなぁ。自費出版で千部刷って全部売れた。連載での企画としてやって経費は自腹で40万円ぐらいかかったけれど、この体験がとても面白かった」
面白かったからと、売上金で第二弾も作った。「廃本研究2」。内容は第一弾と同様に色んな人たちの、全く相手にされなかった企画書や何らかの理由でボツった原稿を集めたもので、これもまた売れた。本を作る楽しさに目覚め、「ドラァグクイーンのおねえさん方に原稿を書いてもらって」作った「the Secret of DRAGQUEEN」を第三弾として出版する。こうなるともう、雑誌の企画の範疇をはるかに遠く超えている。
「これが初めて増刷! 千部を3回刷った。おねえさん方は絵がうまかったり、自称詩人だったり、面白い人が多いからね。それで、これは世界的に売れるんじゃないか?って思って、『ダ・ヴィンチ』の編集者とドイツ・フランクフルトのブックフェアにこの本を持って乗り込んで行った。その編集者がノセるのが上手くて煽られたこともあるけど、自費で一部を英訳してプレゼン資料を作ったな。熱に浮かされていたのかもしれないけど俺、人生で一番迫力あったと思う。超アグレッシブ!結果を出したい!と意気込んで、出版社のブースを次々廻って交渉すると『面白いねぇ』なんて言われて、やった!これで世界発売だ!なんて意気揚々帰国したんだけど、話は全然進まず。玉砕したけど、全力出したから気が済んだ」
結果を出すことだけが全てじゃない。その過程を全力で楽しめばOK。そこがトロさん流。そうしたあれこれを読者も楽しみ、一緒に、あああ、残念~と脱力したり笑ったり。見習って、自費出版をした読者も少なからずいただろう。
「そうこうしてるうち1999年、ネット古書店を取材して興味を抱いて自分もネット古書店を始めたんだ。半年ぐらいかけて古物商の免許をとり、深夜になるとコツコツ入力。ドイツに一緒に行った編集者が『メールマガジンというのが始まったから、そこでネット古書店の宣伝を兼ねて日記を書くといい』とあれこれ世話焼いてくれたのが後々につながった。『こういう本が売れた、これを買い付けた』と書いてたのを読んだ出版社から『オンライン古書店の本を作りましょう』と言って来て、本が作れたんだよ」
その本が出ると読んだ人から、「僕もオンライン古書店をやってみたい」と言ってくるようになった。いよいよトロさんのフォロワーが本格的に生まれだした。
「本を出したら『自分もやりたい』『開業しました』という人が出てきた。しばらくすると『どうしたら見やすくてよく売れるサイトが作れるのか?』なんて勉強会も。その後、最初は傍観していたプロの古書店さんが主催する古書展に出店したり、『渋谷パルコ・ブックセンター』にあったギャラリーでネット古書店だけのイベントを開いたり、あれよあれよと面白い方向に進んでいった。ただし、ネット古書店で得られる利益は月に8~10万円ぐらいだったね。買取も配送も全部一人でやってめちゃめちゃ忙しかったのに、そんなもの。でも、そんなものだから読んでもらえたんだと思う。ビジネス書なら他の人のほうがうまく書けるんだし」
面白いと膝を打つポイントは「秘境感」
そんな渦中のある日、また別の企画が始まる。「裏モノ・ジャパン」の編集長が「うちの若い編集者が、『裁判って、誰が見てもいいらしいっすよ』と言ってたんだけど、興味ありますか?」と聞いてきた。とにかく「じゃ、行ってみよう」と行って、そこから裁判傍聴の連載が始まった。後にこれが文庫化され、60万部を超える大ベストセラーになり、裁判傍聴という言葉も一般化し、裁判員制度や裁判への関心が高まった。
「編集長から言われて始まった企画だけど、最初の頃スキー雑誌で言われるままにやってたのと全然違うのは、自分が行ってみて面白かったらやる、という点。傍聴に実際行ってみたら面白かったから、連載にしたんだよ」
そこです、そこ。北尾トロさんが面白い!と膝をポンと打つポイント、そこを教えてください。
「秘境感です」
「ひ、秘境?」
「近くにあってもよく分からない、これが基本。近くにあっても遠い、訪ねることが滅多にできない、よく分からないから知りたい秘境だね」
秘境は訪ねても必ずしも踏破できると限らないし、踏破しても形にならなかったり、秘境が思ったより秘境じゃないときもある。
「当然失敗もしてます。たとえば『本の町』プロジェクトは本を書くどころか一千万円の赤字。『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』が売れて小金を持っちゃったから、金銭的にシビアになりきれなかった。税理士さんに『道楽はいい加減にしたらどうでしょう?』と叱られてシュンとなったもんね」
イギリス・ウェールズのヘイ・オン・ワイという小さな町で、一人の男が古城を買取り丸ごと古書店としてオープン。そこを中心に数十件の古書店が連なる「本の町」を作り、町おこしに成功したのは世界の古書好きに知られる話だという。その逸話を知ってさっそく渡英、そして……。
「これを日本にも作れば絶対に大成功する、大変なことになっちゃうぞ!って思い、全日空の機内誌『翼の王国』に書いたら、それを読んだ北陸の自治体の市長から手紙がきて、『ぜひ、うちでやらないか? 家は用意するから』と誘われた。だけど、俺は『本の町』の創設者になりたいわけじゃなく、日本にそういう町がどうしてないんだろう?というのが動機だからね。それで、日本の『本の町』のモデルを作れば参考になると考えて、古本屋仲間と長野県の高遠という町に家を借りて古本屋をオープンし、『高遠ブックフェスティバル』というイベントを開いたりしてみたの。結果的には4年で息切れしちゃった。何年か続けて誰かに見てもらって真似され、俺がそこに遊びに行って『できましたね!』と言いたかったけど、そううまくはいかず、フォロワーも生まれなかった」
今度は「町中華」を発見、探訪
それでもまた次の「面白い」を見つける。見つけられるところも凄いが、見つけて育てるとき、そこには誰か仲間がいるのも企画を育てるポイントだ。町中華もそうやって見つけ、育てた。
「2013年暮れ、学生時代から通っていた高円寺の中華『大陸』へ久々に行こうと、まっさん(下関マグロさん)を誘ったんだ。そしたら『あそこ潰れたんじゃないか?』というから、とにかく店の前まで行ってみると、閉店していた。“そこだけはずっとある”と思っていたものがなくなって、『こういう町中華はどんどん減っていくのかね?』とボソッと言ったのをまっさんが聞いてて『何それ? 今なんて言ったの? それ一般用語なの?』って言った。そこから『あの店はまだあるか?』と町中華を廻り始めた。でも、本にしようとかは考えてなかった」
しかし「ちょうどエロ雑誌から1頁物の連載を頼まれたから、そこで書けばいいや」と思って始めた町中華探訪はたちまち話題となり、雑誌「散歩の達人」で連載が始まり、共著で2冊を書き、下関マグロさんと町中華を訪ねるTV番組「ぶらぶら町中華」(CSテレ朝チャンネル)にも出演中だ。
そして、企画を生むのにもう一つ、大切なポイントがある。
「2012年8月に松本に移住したら、地元の出版社から『猟師にインタビューしませんか?』と言われて、『できません』って断った。狩猟に関して何も知らない俺が行ったってまともな話なんて聞けるわけがないから。でも、せっかく松本に来たんだから何か楽しいことを一つやりたいという気持ちが段々強くなってきて、そうだ! 猟師になっちゃえばいいんだ!と思った」
なっちゃえばいい!ってすごい発想だが「古本屋もなっちゃえばいい、傍聴人にもなっちゃう。体験して書くのが基本のスタイルなんで、なるべくならやってみたい」というのもトロさん流だ。
「でも、本にしましょう!と言われたとき、『狩猟に成功してない、獲れてないなんだから恥ずかしい』と言ったんだけど、編集者が『獲れても獲れてなくても楽しそうじゃないですか。だからいいんです』って押し切って。2冊目のときは『獲れてないまま、これで終わったら格好悪いですよ』って」
楽しそうというのはトロさんに対する多くの読者の目線だろう。肩の力が抜けていつも楽しそうに何かをやって、それを書いている、そんなイメージが北尾トロというライター像だ。
「古本屋の頃からそう言われるようになったね。自分としては好きなことをやってるというより、なるべくイヤなことはしないとずっと思ってて、そうしてるんだよ」
そうか、そこだ。「好きなことをする」と「イヤなことをしない」の間には大きな差がある。前者は意外とガツガツしてるけど、後者はのほほんとしてる。そう思いません? そこに独自の肩の力の抜けた雰囲気が生まれ、読者は引きつけられていく。
興味を持ち続けるのは「せいぜい5年」
さて、トロさん、企画を実行するにあたって大切にしているものとは?
「去年は『ピロシキを作って松本の名物にする!』とノリノリだったけど、先が見えた感じで止めてしまった。体当たりならいいのか?。エスカレートして、とんでもない企画になるのは面白いと思わない。そうじゃなくて、毎日見ている光景だけど、それをこんな風に面白くできる、という角度の付け方? そういうことに興味がある」
毎日見ている光景。町中華なんてその最たるものだろう。あたりまえに町の風景に溶け込んでいる、ラーメンや餃子、オムライスや中華丼を出すお店、町中華。
「6月に町中華の本を出すけど、最後の最後で『丸長』という町中華のグループの話が出てきてね、そこの会長と仲良くなって話を聞いたら面白い。本を書き終えてから、今回はこれでいいけど、まだ書き足りない。丸長物語を書きたい!と思ってる。いつもこういうときは家族に話すんだけど『やった方がいい』と言われてその気になって編集者に相談したら、う~んと唸って『丸長って関東だけですよね?九州の人、知りませんよね?』だって。俺の中では町中華について深く書きたい!と思って書いた『夕陽に赤い町中華』で町中華から卒業するつもりだったけど、今は町中華の陽はまだ沈まない!と思ってるよ」
卒業? そうだ、トロさんは何かに興味を持って企画して形にしても、そのうち飽きて「もってせいぜい5年」と胸を張る。
「何故そうなるかというと、自分よりフカボリできる人が現われるから。自分は開墾して、そこに来る人がいるというか、いや、そうじゃないな。そんなフロンティア・スピリットはないから、既にあった空地に行って遊んでたら次の人たちがやって来て本格的にやり始める。俺がいると邪魔だからどいた方がいい。俺はまた次のあんまり使われてない空地に行くんだ。そんな感じだな。遊び半分で、たまたま、なんだよね」
フォロワーが生まれたらその場から去る。北尾トロの面白さが続くのは、ここに理由があるのだ。