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この世界、バグあってこそ 上田岳弘さん×宮内悠介さん同年生まれ作家対談

上田岳弘さん(左)と宮内悠介さん=横関一浩撮影

ともにIT業界で働いていた

上田 僕と宮内さんは同じIT業界で業務経験のある作家同士。僕はビジネス側の人間ですが、宮内さんはコード(プログラミング言語)を書ける人。作品を読むとその対比が感じられて面白かった。『偶然の聖地』は世界を作るプロジェクトに失敗した仮想世界の話として読みましたが、ある意味ではこの世界が失敗しているのかもしれない。

宮内 もともとSF的な仮想世界の話を考えていましたが、実際に世界にはバグ(不具合)があってそれを頑張って直している人たちがいる。今の世界そのものかもしれない、と途中で気づきました。

――『偶然の聖地』は、遺体が腐らなかったり、タコのような怪物が空を飛んだりといった、説明不能なバグが世界中で相次ぎ、「世界医」と呼ばれる者がデバッグ(修復)して飛び回っています。

上田 各地で起きるバグを「旅春」(りょしゅん)と呼んでいますが、これは存在するのですか?

宮内 いえ、適当に書きました。

上田 ありそうでなさそうで、あえて調べなかった。

宮内 基本的にほら話です。今の人はググりながら読むだろうと思って。

上田 その作者の意図を読み取って、意地でもググらなかった(笑)。

――上田さんの『キュー』は、前世で被爆した記憶を持つと主張する少女を思い続ける医師と、石原莞爾の思想にのめり込む祖父、そして700年強の眠りから覚めた未来の男という3層から成り立っています。

宮内 「私の中には第二次世界大戦が入っているの」と主張する恭子というキャラクターが好きでした。上田さんのこれまでの作品の集大成という印象を受けます。これだけ要素が複雑に絡み合って、どこから思いつかれたのだろう。

上田 恭子は僕も好きですね。『キュー』はデビュー前からコンセプトだけがありました。「キュー」という音のタイトルで、1章ごとに別の漢字を使うということだけが決まっていた。それと石原莞爾を出そう、と。

宮内 石原莞爾、なぜ。

上田 20歳ぐらいの頃に彼の『世界最終戦論』を読んですごく興味を持った。東日本大震災のショック時に書いた作品『異郷の友人』でも石原莞爾を出しましたが、いつかもう一度書きたくて。コンセプトと石原莞爾と今までの作品をぎゅっと押し込み、えいやっと書いたので、中身の構想はちゃんとやってない。宮内さんはこういう作品を書く、と決めて始めるのですか。

上田岳弘さん=2019年6月12日、東京都中央区、横関一浩撮影

宮内 コンセプトは決めます。その時々に考えていること、問題視していること。しかし今回はぶっつけ本番でした。エッセーでも小説でもないものを、というのが講談社さんの依頼で、エッセーと小説の違いって何だろうと手探りで始めたら、小説になってしまった。

上田 作家だからね。

宮内 私は元プレイングマネージャーで、企画から設計、デバッグまでスケジュールを立てる。計画しないと気が済まないタイプなのに……。

上田 どこかでアジャイル式に変わっちゃった。

宮内 そうなんです。

――アジャイル式?

宮内 アジャイル、ウォーターフォール、と言いまして。

上田 制作過程の設計図をきちっと作った上で進めるのがウォーターフォール式で、アジャイルはトライアンドエラーが過程に組み込まれている。タイトルからしてアジャイルを意識しているのかと思っていました。

宮内 そうではないのです。連載期間が4年と長く、そのときそのときの思いつきをそのまま載せてくださって。文体も変わってしまうし、内容も覚えていられないだろうと思って、忘れてもいいように山を目指す話にしました。設計図がないことで、自分の中の思わぬ想像力に気づくこともありましたが、最後はまぐれでなんとかまとまって、本当に良かったです。

宮内悠介さん=2019年6月12日、東京都中央区、横関一浩撮影

上田 宮内さんが「啓示が怪しい」と書くときに、神からの「啓示」に「コンパイル」とルビがふってある。コンパイルはプログラム言語を動くようにすること。これ、僕には面白いけど……というポイントがいくつもあった。

宮内 完全にほら話ですね。ほら話が好きなんですよ。上田さんの石原莞爾をめぐるほら話っぽいパートも好きです。

上田 これを読んだときに、宮内さんのデビュー作、あれもギャグでやってたのかなと思ったんです。

宮内 『盤上の夜』は本人的には渾身のギャグがけっこうあるんです。作者は大まじめな顔をして変なことを書いている。ところが、普通に、シリアスに読まれました。あんなはずではなかった。ねらいがはずれました(笑)。

不具合・失敗、いまや郷愁(宮内)/「完全」なら人間いない(上田)

――『キュー』にも『偶然の聖地』にもバグという言葉がたびたび登場します。

宮内 『偶然の聖地』は仮想現実を描いていますが、世の仮想現実物の多くはプログラムがかなり精緻に動き、例外はあるとはいえ、ほとんどバグはない。しかしプログラムである以上、業務経験上、そこにバグがないはずはない、と私は思ってしまう。そうしておのずとバグだらけの世界とそれをデバッグする医師たちという話が出てきました。ただ、今はテクノロジーが進歩しすぎて、人の手を離れつつあるように感じています。秋葉原で部品を買って何かを作るというわけにはいかないほどテクノロジーが進んでしまった。だからバグには郷愁を感じます。

上田 まったく同感ですね。

宮内 上田さんが『ニムロッド』で引用した「ダメな飛行機コレクション」に通じるのではないでしょうか。『ニムロッド』ではビットコイン、ブロックチェーンと個々人の理解をテクノロジーが追い越していく様が描かれる。その中で「ダメな飛行機コレクション」が私には輝いて見えた。

――「ダメな飛行機コレクション」は、まとめサイト「NAVERまとめ」で過去の飛行機の失敗作を集めたもの。『ニムロッド』で重要なモチーフとなっています。

上田 3年ほど前にこのまとめサイトを見つけ、単純に面白いと思った。書くつもりはなかったけれど、ビットコインについて書こうと思ったときになぜか浮かんだんですよね。テクノロジーは人間を置いて、どんどん進歩していく。しかし「ダメな飛行機」は、テクノロジーがまだ人間の配下にあって、そうであるがゆえに失敗が存在していた時代の産物。それこそ郷愁。対比して書くことで、今読んでもらう作品として存在し得るのではないかと思った。

上田岳弘さん=2019年6月12日、東京都中央区、横関一浩撮影

上田 プログラミングのなかに、読み込まれないよう頭キーをつけて、プログラマーがコメントを残すことがあります。『偶然の聖地』でもそれが書かれていて、僕にはツボでした。

宮内 プログラマーがとりあえず忘れないようにコメントをプログラムに残す。ときどき残念なコメントがあって。「何をしているかわからないがこの1行を消すとなぜか動かなくなる」とか。

上田 あるんですよね。意味がわからないけれど、不穏なコメントが。

宮内 そのプログラムを頭から解析して原因を突き止めていく時間のない状況で、そんなコメントが出てくる。

――そういうとき、プログラマーとしてはどうするのでしょうか。

宮内 見なかったことにします。製品として最終的に動けばいいので。

上田 そう、納期がすべて。

宮内 「命落とすな、納期落とせ」とは言いますが……。それで残念なプログラムがけっこう生まれる。開発の世界では、バグにランクがあります。Aランクバグ、Bランクバグ、と。Aランクバグは、アプリケーションがそのまま落ちてしまうとか、絶対に直さないといけない。胃が痛くなるやつです。小説にはAランクのバグは存在しない。ある意味、つじつまがあわなくても出版できてしまう。

上田 ははは、そうかな。

宮内 もちろんつじつまをあわせようと本人は努力しますけど。本を読んでいて、その本が突然消えるようなことはないわけです。その点でいえば、プログラミングよりは気楽さが存在して、バグの話も楽しく笑って書ける。

上田 僕はどちらかというとこの世界にもバグがあると思っている。理由のつかないことがいっぱいあるから。もしかしたら世界が完全に回っていくと、人間自体が生まれなかったのではないか。これはあくまで想像ですが。常にバグのようなものが発生するという余地が、我々の存在理由なのかな、と定義付けたくなることがあります。

2人の見ているフィルターは似ている

上田 『偶然の聖地』にしかない言葉と、『キュー』にしかない言葉は、けっこう対応しているように思います。たとえば『キュー』で世界の形を変えようとする立花茂樹は、もしかしたら最後に残った『偶然の聖地』の「世界医」かもしれない。宮内さんとは見ているフィルターが似ていると思う。

宮内 なんとなく、そう感じますね。

上田 おそらく、世代や、通ってきた場所が近いというのがあると思う。同い年で、早稲田大卒で、IT経験があって、麻雀をやる。

――麻雀は関係あるのでしょうか。

宮内 知っている共通の店があって。それは重要ですよ。世代としては、ロスジェネの真ん中でしょうか。

上田 ですね。宮内さんは、就活した派ですか。

宮内 一切しませんでした。

上田 僕も一切していない。そういうことじゃないかな。早稲田にいる、就職しないようなふらりとした人がどこに吸収されるか。かつては放送業界とか。僕らが大学を卒業した頃は、それがIT業界だった。

宮内 二人ともITのスタートアップに立ち会っている。

――就職しなかったのは作家になるため?

上田 作家になろうと思っていたから就活にも身が入らず、いろいろと理由をつけて卒業をしたというのが実体。

宮内 私は世界を旅してみたかった。なんとなく作家デビューできる予感はあった。今にして思えば笑っちゃうだいそれた話ですが。ただ、頭だけでものを書くようになりそうだったので、世界をまわりたい、フリーターをしたい、会社員もしたい、と思っていました。

――上田さんは『キュー』で「いつか人間はひとかたまりになる」と登場人物に語らせています。

上田 今までの代替わりは、お祖父ちゃんから聞いた話といった口伝で、情報資産の引き継ぎが甘かった。これから先はおそらく細密に残ると思う。何が起こったのか、そのときどう思ったのか。ツイッターのログなどで残っていく。それを誰もが共有できる。つまり情報はひとかたまりになる。人間の活動をすべて情報として見るとひとかたまりになっていくが、肉体はどうなるか。肉体さえ追いつけば代替わりは遅くなり、場合によっては死なない。僕はデフォルメして「肉の海」と書いていますが、そうなるという感覚がある。ただ、それでいいのか、という疑問もある。旅春をググらないような、小さな反抗が大事なのかな、と。

――『キュー』では、ある登場人物が、人間の似姿を作る場合は「寂しさ」の感情があれば良いと判断して、「人造人間」に寂しさを与えます。ここから、人間らしさが見えてくるように感じます。

上田 若い頃は、寂しいじゃないですか。この寂しさは引力が存在するからじゃないかと思っていました。物理法則とか科学の現象から作品の中身を発想することが多いのです。原子の構造を見ていると、引力でひきあう場合にどこまでも近づいて一緒になるのではなく、最後には斥力という反発が生まれる。引力だけでなく、斥力とセットで人間は活動しているように思い、そう表現しました。

宮内 AIと比較して人間らしさを考える場合、AIが何を目指すか次第になります。コップを手に持ってコースターに置くという動作一つとっても、あらゆる可能性を想定するとAIはフリーズするという問題がかつて提唱されていました。人間はなぜその行為が出来るのか。単に愚かだから。あらゆる可能性を想定しない、あるいは感情に身を任せて動く。AIが人間を目指していくなら、人間との微妙な差異、たとえば人間の不合理性や執着が浮き上がると思いますが、そもそもAIが人間を模倣する必要があるのでしょうか。AIにはもっと先の存在を目指してほしい。人間とサルを比較するのではなく、ゾウとキリンと比較するような関係になっていったほうが面白いです。

宮内悠介さん=2019年6月12日、東京都中央区、横関一浩撮影

上田 宮内さんは『スペース金融道』で、ロボット三原則(人に危害を加えない、命令に服従する、自己を守る)のような、アンドロイドへの新三原則を書いていました。それを掲げることで、人間側がAIを支配しようとするのはどうなのかな、と思いながら、僕は『キュー』を書いていました。我々の生み出したものだから我々に利益を与えよ、というのは自然な発想だと思うが、それはフェアなのだろうか。

宮内 小説のガジェットとして三原則は使いやすい。

上田 そうですよね、そして実際に人間はいつかAI三原則を作ると思う。AIに追い越されそうになると、怖さが先立つだろうし。

宮内 そうなったら、ハッキングして三原則を取っ払う人がいくらでも出てくるはずなので、結局は名目だけになりそうな気がします。プロテクトは外しちゃえばいいんですから。

上田 そうですね。宮内さんと藤井太洋さんの対談で、藤井さんが「グーグルのクロームのソースコードを見ていると、もはや人間が書いたものとは思えない」と話していた。シンギュラリティー(AIが人間を越える技術的特異点)はすでに存在している、と。

宮内 ぞっとする話です。

上田 AIの権限の問題についてずっと考えています。人間側にある権限を手放すのかどうか。みんなで考えるべきことだと思う。

AIが「大量死」招く(宮内)/人が基準でない未来に(上田)

――シンギュラリティーをどう見ていますか。

宮内 楽観的でもあり悲観的でもあります。楽観的というのは、たとえばAIが人間の仕事を奪うのではなく、長期的には私たちは仕事をしなくてよくなるという話があります。AIが仕事をし、私たちはベーシックインカム(BI、政府が全国民に最低限のお金を支給する)か何かで経済を回していく。ただ、そうかといって、「はいそうですか」と、おいそれとBIに移行はできない。たくさんの失業があり、死があり、そのあとでBIに移行する。その大量死の期間が一度、訪れるのではないでしょうか。そういう意味では悲観的です。為政者は為政者でうまくいくかわからないBIをすぐに導入するわけにもいかないし、時間はかかると見ています。

上田 そうなりそうですが、かなり悲観的に聞こえますね。

宮内 最終的にはみんなが好きなことをやって生きていける時代が来ると考えれば、楽観的なのですけど。

上田 僕の考えもあまり変わらない。AIの倫理基準がどこかの段階で作られて、それは人間の行動を超えるでしょう。歴史の中で作られてきた、みなが公平で、同権であるべきだという倫理基準は、AIには関係がない。人間のパターンもいくつか残しておこうか、という発想になるかもしれないが、人間は基本、愚かだから、残す場合も愚かの種がコンプリートできたらあとは不要になるかもしれない。適正サイズを維持するために人類が圧縮されるというイメージは、「肉の海」という言葉で書いてきました。余剰の人間が削られていく、世界的な圧力を感じています。

歴史プラスSFで作る物語の縦軸

――『キュー』は第二次世界大戦や憲法九条を取り入れています。宮内さんにも、現代のリビングと戦時下の茶の間が重なる『ディレイ・エフェクト』など戦争を題材にした作品があります。戦争を描く理由とは。

上田 争いはどうしても起こってしまう、人間の営為そのものだと思う。社会が発展しているからこそ戦争は起きる。戦争がなければ70億人まで人口は増えなかったのではないか。争いやいさかい、何かしらのせめぎ合いがなければ人類ではない。貧しい国で子どもがすぐに死んでしまうことも、命のやりとりが直接ないとはいえ、ある意味では戦争です。どうしても戦争が起きる世界の実相と、戦争を禁止する九条を作品の中に配置したかった。結論が出ないまま書いていたけれど、そういうことを表現したかったのだと思う。

宮内 戦争というより、歴史を描きたいという思いがあります。ツイッターなどのSNSでは個人個人が断片化して常に現在ばかりが押し寄せている印象を抱く。それで良いという人は構わないのですが、私は寄る辺のなさを感じてしまう。そこで何が必要かと考えると、歴史という縦軸が処方箋になるかもしれない。『ディレイ・エフェクト』では歴史修正主義に陥らずに、いかにして歴史を取り戻すかを考えながら書きました。

上田 縦軸をどう作るかは歴史プラスSFじゃないかな。宮内さんは『カブールの園』や『偶然の聖地』で家族を書いているけれど、新しい家族の形を模索したのですか。

宮内 『カブールの園』は日系3世の主人公の話で、家族についてはかなり意識しました。『偶然の聖地』は適当です。

上田 家族や血縁は、たまたまこの親から生まれたからといって一生つきあうもの。一生つきあう理由がどんどん減っているなか、最終的に血縁しかないのは切ないですし、とはいえ、そこにこだわりが生じるのはなぜかと考える。『キュー』でも孫と祖父が登場して、僕も縦軸を求めていたのかな、と思った。

――ともに作品の多くが、構えの大きな物語です。

上田 世界の仕組みに興味があるから。自分が、世界がなぜ存在するのかという根本的な疑問があった。その視点で小説を書いていると表明するために、デビュー作の「太陽」は宇宙規模になった。だんだん日常で表現できるようになってきたけれど、最初は地球の裏側にいってましたね。

――自分が、世界がなぜ存在するのか、という疑問とは。

上田 自分が存在するというか、生まれてきたことが不快ではないけれど、承諾はしていない、無礼な話だと思っている。不平等なんですよ。親ではなく、世界に対して、承諾していないよという思いがずっとあった。僕が小説を書いているのは、その辺りが根本なのかもしれない。

宮内 私は逆に、もっと身の回りのことを書かなければ、書かなければ、と思いながら、なかなかそうはいかず。人のつながりや世界を横軸に、歴史を縦軸にしたくて、おのずと風呂敷が広がっていってしまう。自分の身の回りに興味がないのもあって。でも真に小説に必要なのは個人の内面という、ある種、縦軸横軸の中心である点なのかもしれません。これからは座標原点、ゼロポイントをもう少し深めなければと思っています。

上田 僕もあまり細かく人間を描写しない。

宮内 誰がどんな髪形をしてどんな格好をして、といったことをあまり書かないところは共通していますよね。

上田 正直、興味ない。

宮内 本質ではないから。

上田岳弘さん(左)と宮内悠介さん=2019年6月12日、東京都中央区、横関一浩撮影

――宮内さんはSFと純文学を行ったり来たり。上田さんも純文学ながらSF的な読み方もされます。小説のジャンルはどう考えていますか。

宮内 たまたま書きたいことが多くて、結果的に越境している。たまたまSFで、たまたま純文学であったりと。安易にマッシュアップすると先人が築いたジャンルにフリーライドすることになるので、SFらしいSF、純文学らしい純文学にもしっかり取り組まなければ、と思っています。

上田 基本的にジャンルについては考えていなくて、書きたいものを書いている。デビュー前に純文学の新人賞に応募していたのは、純文学は本来、文学の源流というか、何でもありとされているはずのものなので、そこからデビューするのが筋かなと思っていた。書きたいものを書く。文学は本来、無差別級です。(構成・中村真理子)