もともとは「ニコ動」の解説動画
――本書は著者の三崎さんが奇書として選んだ著作群を、14章仕立てで紹介したものです。長年誰も解読できていないことで有名な『ヴォイニッチ手稿』や、アウトサイダー・アートの代表作であるヘンリー・ダーガー『非現実の王国で』など割とメジャーな物から、マイナーな本まで様々です。そもそもニコ動で三崎さんがアップしていた「ゆっくり解説(機械音声によるテキスト朗読でいろんなテーマを紹介する動画)」が元となっていますが、こんなニッチなテーマを紹介したきっかけは何ですか?
ニコ動ではもともと、「SCP」という、海外の創作都市伝説集についての解説動画を手掛けていました。16年からこの「世界の奇書をゆっくり解説」を始めました。最初のテーマは『魔女に与える鉄槌』。ディスカバリーチャンネル(米国の衛星テレビ)でこの本を取り扱った番組を見て面白いなと思い、衝動的に「俺だったらこういう順番で解説する!」と、3日くらいで動画を作ったのです。1回目のこの投稿は約40万回再生に達しました。
――中世の欧州にいた1人の異端審問官による、ヒステリックで偏見に満ちた“魔女狩りのノウハウ本”が出版技術の勃興や当時の人々の不安を追い風に広まり、10万人もの犠牲者を出したという話ですね。巻末には膨大な参考文献が記されていますが、本動画を作る前から歴史学や文献研究を手掛けていたのですか?
いえ、僕自身は理系の大学出身で、文献調査を学んでいたわけではありません。二次資料をすごく読み込んで動画にしているだけですね。研究者ではないのであくまで日本語の資料を読んで作っています。「研究」という言葉には「この世界に無い知識を付加する」という意味があると思うのですが、僕のやっているのは「紹介者」という位置づけですね。
『魔女に与える鉄槌』の動画は今見るとグダグダでテンポも悪いなぁと思うのですが、意外と好評を得たのが嬉しくて2回以降も手掛けました。「奇書の人」という期待が視聴者の間で高まっているので、それに追いつけるように頑張っているところです。
基本的に僕は「自分の理解力が低い」と思っていて、他人の作った解説が分かりづらいと感じることがあるのです。動画で自分にもわかる言葉で伝えようとしたから、(視聴者にも)刺さったのかもしれない。
本はときに人を殴る「ハンマー」になる
――しかし、本書や三崎さんの動画からは、単なる古典や歴史の分かりやすい紹介にとどまらないメッセージ性を感じます。どんな狙いで手掛けたのですか?
基本、「見ている人の“ハシゴ”を外したい!」ということしか考えていません。まず、(動画第1回を作るに当たり)最初の瞬間、「あなたにとって『魔女に与える鉄槌』は何ですか?」というワードが浮かんだのです。「視聴者の価値観をいじくってやろう」という、ちょっと敵対的なイメージですね。「(ニコ動などの)動画を見ている人は、動画投稿者の思った風に動きがちというか、寄り添いがち」だと僕自身、視聴者として普段から思っていたのです。そこを逆にうまいこと振り回してみると、面白いことができるのでは、と。このラストの一文で、視聴者の価値観を振り回してやりたかったのです。
特に僕は、今の世にも「魔女への鉄槌」というモノが多いと思っていました。動画を投稿した頃も、海外と日本との関係(の話題)で、歴史を引き合いにして相手をおとしめる言説を見て、嫌だなと感じていました。相手を「殴る」導入として知識を使っている感じですね。
『魔女に~』の本も、著者が「これこそが真実だ」という妄執で書いた物が、当時の時代性に合致してしまい、流通したのだと思います。当時でも「行き過ぎじゃないか」という意見は出ていましたが、「魔女」を殴りたい人々が一定数いたため、都合のいい“ハンマー”として広まってしまった。それはどの時代にも当てはまることです。なまじ本の形になると、(妄執のような内容でも)信ぴょう性が出てしまうのですね。
――ちなみに、本書でチョイスした「奇書」とはどんな定義なのでしょうか?
三崎:動画を作っている最中はそこまで意識していなかったのですが、本としてまとめた今では「ある時点での価値観を保存している」、かつ「その価値観が今と著しくズレた、もしくはズレを経験した」物ですね。例えば(コペルニクスが地動説を展開した)『天体の回転について』の回は僕としてはお気に入りで、あれで奇書の概念が出てきたように思えます。コペルニクスの本を奇書として捉えることができて、自分としては「うぉぉっ!」となった。登場する科学者たちの来歴などを調べるのは大変でしたが、その初期衝動で走り抜けられました。
「対岸のオカルト」になっていないか
――コペルニクスの地動説のケースとは逆に、現代では迷信のようにしか思えない風習が当時はとても「科学的」だった、という奇書も登場しますね。17世紀の英国では「人に傷を負わせた武器の方に軟膏を塗ると人間の傷が癒える」武器軟膏という治療法の論文を巡り、論争が起きたとか。明らかに非科学的な説なのに、擁護派が科学的な対照実験を行ってその効能を「実証」してしまうという。
全体的な論調としては擁護派の方が理性的で、しっかりと実験も行っているんですよね。逆に反対派は、基本的に「信仰」にひっかけて文句を言うのです。彼らも武器軟膏の効果自体は実は否定してなくて、「これは黒魔術だろう」などと批判しているのです。
――実際には、この対照実験が成功した裏には予期せぬ科学のカラクリがあったわけですが、現代人の我々も一体どちらの立場が「科学的」なのか、混乱してしまいます。
この武器軟膏は、(現代日本でいうところの)「水からの伝言」ですよね(笑)。
――とある人物が「水に『ありがとう』といった言葉を掛けるときれいな結晶に、汚い言葉を浴びせるといびつな結晶ができる」などと著作で主張し、一時は教育現場でも取り入れられ問題になった疑似科学の代表例ですね。
我々は科学というか、いわば「形式化された、真実を追求するツール」を手に入れているのです。その文法に(言説が)乗っ取っていれば信じられるのですが、それ以前に「科学の文法」でなく、単に「科学の単語を使ったオカルト」を信じている人もいるのです。
以前Twitter上で見たのですが、「きれいな言葉を掛けたリンゴと、『バカ野郎』などと浴びせたリンゴでは、後者の方がすぐ腐る」という主張がありました。「そうじゃないだろう」などというコメントがいっぱい出た中で1人、1週間かけて実験をちゃんとやって「有意な差が出なかった」と言った人がいたんですね。僕は感動しました。これが「科学」だろうと。ちなみにその人が(実験に際して立てた)仮説は、「(バカ野郎という言葉には)濁点が多くて唾が飛んだのでは?」というものでした。
「そんなことないだろう」と言った(だけの)人は、「別の対岸のオカルト」にいる人なのです。それなのに「これは科学だろう」という顔をしてしまっている。
僕の動画も批判的に見てほしい
――これらの奇書は大昔の人の無知を笑うというよりむしろ、まさに現代の我々の固定概念を暴露しているようにも思えます。ただ、こうした「考えさせる」テーマが、いかにも分かりやすいものが受けそうな最近の動画コンテンツの中で人気になったのは意外です。
逆に民放などのテレビ番組は、視聴者を舐め過ぎなのだと思います。例えば、BS11で流れている質の高いドキュメンタリーなどを求めている層はちゃんといます。いわば「知識の快楽」の供給が足りていないと感じます。ただ、僕が必死で調べて作った『ヴォイニッチ手稿』の動画より、とあるブログの内容のコピペを流すだけのような(他の人の)動画の方が、再生回数が上だったりしますけどね(笑)。
――元からの動画のファンにも、本書で奇書解説に初めて出会う読者にも、本書はどのように読まれて欲しいですか?
例えばTwitterだったら、140文字以内で印象に残りやすい言葉を使った人の方が、分かりにくい言説よりも信ぴょう性が高いと思われるものです。「いかに強く分かりやすいワードを言うか」が勝負ですから。僕もその手法を(いくらか)使っている身であまり悪くは言えないのですが、やはりそういう話には一歩立ち止まってほしいな、と思うのです。
僕の動画も、批判的に見てほしいなと思っています。動画の最新作では「盂蘭盆経(仏教経典の1つで三崎さんは偽経として紹介。本書未収録)」を取り上げたのですが、「最新の研究では違っていて、偽経ではない」というコメントが視聴者から文献リストと共に送られてきたのです。それらはネット上でちゃんと公開されていた情報でしたが、住職の人の間で共有されているコラムだったりして、僕がリーチできていませんでした。そこまで調べられなかったのは申し訳なかったですが、(視聴者が批判的に見てくれたことは)嬉しかったです。
本書を作っている最中は、動画を見てくれた人たちを裏切らないように、とだけ考えていました。動画作りは今後も続けていきたいですね。