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ヘンに醒めずに、全部コミットしていこう! エレキコミック・やついいちろうさんが初のエッセイを出版

文:加賀直樹、写真:有村蓮

――小学校の卒業アルバムで、すでに将来の夢を「お笑い芸人」と書いたという、やついさん。本書では、芸人への夢の実現に至った原点である、大学時代の日々が熱く描かれています。そもそもなぜ芸人を目指すような小学生だったのでしょうか。憧れの芸人がいたとか?

 ザ・ドリフターズのブームだったんです。僕、「三重県出身」とあるんですけど、出生地は東京・駒込で、小学校1年生の3学期までは東京で過ごしていたんですね。当時、友達がよくドリフの観覧に行っていたんですよ。それで「なんか良いなあ~」って。

――TBS系「8時だョ!全員集合」。渋谷公会堂や文京公会堂など、首都圏一円のホールで公開生放送をやっていましたよね。

 やっていましたよね。テレビが好きな子でした。でね、すぐ僕、「全員集合」の裏番組「オレたちひょうきん族」(フジ系)派になった。(ビート)たけしさんが好きでしたね。ツービートが好きだったんです。僕のお父さんはB&Bが好きだったんですけど、僕はツービート。とにかく彼らが出ていると嬉しかった。笑いをわかっていたかどうか、わからないですけど、パッと見たカッコ良さがあったと思うんです。

――72年結成の「ツービート」、80年代前半に人気絶頂になりました。74年生まれのやついさんとしては、世代的に少しだけ背伸びしていたのかも知れませんね。

 そのあとは、普通にとんねるずさんが好きでした。木梨(憲武)さんの仮面ノリダーを、ただ真似するような子。友達の前で披露はしていないですけど、お笑いが好きだった。中学校の時はバンドブームで、でもバンドはやらなかったです。

――ご自身が敬愛し、音楽シーンでの影響を受ける曽我部恵一さんをまだ知る前ですよね。

 まだサニーデイ・サービスがデビューしていないですからね。THE BLUE HEARTSとかが出ていた頃でしたから。「三宅裕司のいかすバンド天国(イカ天)」(TBS系)を観たり。あと、中2の時に「オモシロ小説」みたいなのを書いて。それをクラスの女子に読ませるっていう活動をしていましたね。……あ、そうだ。小6の時の国語の授業で、ちょっと漫画チックな地図が貼り出されて、「この島を題材に小説を書け」って授業があったんですよ。

――へえ、変わった授業! 自由課題なのですか。

 「文章、小説、本を1冊書け」っていう授業があって、(題材は)アニメっぽくて、実際にはない島。「この島にまつわる話ならなんでもよいから、ここから想像して物語を書きなさい」って。みんな、スゲエ嫌がっていたんですよ。僕も嫌だったんですけど、でも、書き始めたらすごく楽しくなってきて、ビューって書いて。題名は「アットランダムス」っていう物語。ズッコケ3人組が島で起きる事件に立ち向かう話。

――冒険モノみたいなストーリーですか。

 その文章が冊子になって、学級文庫に置かれた。僕の書いた物語の評価がわりと高かったんです。その時、「面白く書けば笑ってくれる」っていうのが楽しいと気付いた。書き始めたら長くなっちゃった。僕のだけメッチャ長かったんですよ。原稿用紙20枚ぐらい。その体験があったからか、中2の時に、ちょっとコント寄りの台本みたいなのを授業中に書いて、皆に回し読みさせたんです。

――クラスのなかで、先生の目の届かない時を見計らって皆で回すわけですね。

 その代わり、ものすごい勢いで成績は下がっていったんですけど(笑)。

――当時、何作ぐらい書いたのですか。

 毎日書いていて、毎日読ませていたんです。ほしがるから(笑)。女子のほうが笑ってくれる。どんな内容だったか、まったく覚えていないんですよ。どこにも残っていないと思う。ノートに書いていたんですけどね。「ウンコ踏んじゃった」みたいな、どうしようもない話だったと思うんですけど。

――でも、ひとを笑わせる文章力をそこで培った。高校時代もずっと書き続けていたのですか。

 中2の時だけ異常にやっていました。成績が下がっちゃったんで、中3で足を洗った(笑)。高校に入ってからは洋楽を聴いていました。米国のロックバンド・ニルヴァーナ、英国のレディオヘッド。そのへんを。

――大学は、地元・三重に残るという道もあったと思うのですが、東京・八王子の大学に進学。

 もともと東京生まれだったというのもあって、行くつもりはずっとあったんです。「どこでも良いから東京の大学に行こう」と。地元にいるつもりは全然なかったです。

 大学に入ったあとに調べたら、どうやら落語研究会(落研)があるらしい。
 貼り紙を見て連絡を取った。部室はないらしく、学生が集まる食堂で待ち合わせをした。
 そこに現れた先輩に話を聞くと、落研といいつつも落語はやっておらず、漫才やコントを学祭でやっているくらい、とのことだった。部員も8人ほどらしい。
 それを聞いて、「これはやりたいことがやれそうだ」と思った。(中略)他にも音楽や演劇のサークルも見に行ったが、やたら組織がしっかりしていて自分には向いていない気がした。
 というわけで、僕は落研に入ることに決めた。(『それこそ青春というやつなのだろうな』より)

――入学当時、落研は廃部寸前の状態だったのですね。「落研」といいながら、落語をやっている学生さえいなかったのですか。

 ほとんどいなかったですね。落語という道は考えもしなかった。いま、落語ブームですけれども、当時はそういう雰囲気はなかったです。授業中にネタを書いては、月1回のライブを提案して実行しました。自分たちでチラシを作って休み時間に配って。ただ配っても誰も来てくれないから、なるべく面白いことを喋りながら、一人ひとりを笑わせる。そんなことをしているうちに、50人ぐらいがライブに来てくれるようになったんです。

――本書の、注目すべきキャラクターが出てきますよね。「ホネッチ先輩」。彼の存在は、まるで落語に出てくる「与太郎」みたいな、ちょっと……、やついさんの先輩に対して言うのもアレですが、「足りない」けど「愛されキャラ」。そこに落語の香りが少し漂うなあ、って印象を持ったんです。

 彼、とある落語家の大師匠に弟子入りしようとするんですよね。そこで事件が起こる(笑)。僕自身、落語は後になって好きになりました。当時は、自分のつくったものをやりたかった。

――部員たちが寝泊まりする「スサキ荘」は、まるで漫画家でいう「トキワ荘」みたいな風情。家賃1万8千円。共同風呂で、汲み取り便所。貧乏ながらも明るくて面白い逸話がいっぱい散りばめられています。やついさんは18歳から24歳まで、なんと7年間も「スサキ荘」で過ごしたのですね。とりわけ読者から反響の大きかったエピソードはありますか。

 やっぱり「米泥棒」の話とかね(笑)。

 ある日、僕は食べていないのに、うちの米があからさまに減るという“事件”が起きた。犯人はわからない。僕は基本的に家に鍵をかけていなかったので、誰でも入ることができる。(中略)「とにかく今は、事件がどう進展していくか見守ろう」僕は静かにチャリを飛ばし、近所にあったスーパーで米を購入。そっと米びつをいっぱいにしておいた。
 そんなある日、事件に進展があった。
 米びつはあるが、炊飯器がなくなっていたのだ、一緒に茶わんとお箸が一組なくなっていた。「えっ!」と思ったが、放っておいたら次の日には洗って返されていた。(『それこそ青春というやつなのだろうな』より)

――期限切れのコンビニ弁当をめぐる攻防もありましたね。笑えるけれど、本人たちにとっては死活問題。ちょっと変な質問ですけど、いま、「スサキ荘」での生活に戻ってみたい、と思ったりはしませんか。創作に明け暮れる、コミューン的な共同生活。

 ゼッタイ嫌ですね(笑)。異常なほどの貧乏ですから。死にかけましたからね。まずクーラーがないですから。夏は裸になって、身体に水をつけるんですよ、ビチャビチャって。それで扇風機の前に行って、水が乾くタイミングで熱を奪ってもらう。

――気化熱(笑)。

 そうそう。それで体温を下げて寝るというスタイルでやっていましたから。窓もドアも開けて。窓だけだと換気ゼロなんです。ドアをバタバタやって風を通す。外で寝ているみたいなもんです。

――「落研」は数々のコンテストで好成績をおさめ、瞬く間に人気と実力を伸ばしていきます。そのとき、やついさんと一緒に頑張っていたのが、ラーメンズ、ナイツ、ゲッターズ飯田さんなど、現在活躍中の芸人さんたち。本書にもたびたび登場し、当時から同じ空気を吸って切磋琢磨し合っていたのだな、と改めて感銘を受けるのですが、そんな青春時代を共有した彼らと、いまお仕事を一緒にしながら、当時を思い返したり、振り返ったりすることはありますか。

 (強く首を振って)いったん切れないと、たぶん、思い出も振り返られないと思うんです。

――「いったん切れないと」というのは?

 卒業して何年か会わなくなると、再会したときに(その間の)思い出がないから、昔のことを思い出す。だけど、(彼らとは)ずーっと一緒なので。まったく話さないですね、昔の話。1回も切れたことがない。「思い出」という意味では、ずっと更新され続けているんで、わざわざ古いことを思い返さない。久しぶりに会ったひとだと、昔の話をするのだと思うんですけど、ずっと会っていると昔の話って殆どしないんですよ。

――本書は、回顧モノという側面だけでなく、ビジネス書に通じるような一節がいくつかあります。たとえば「仕事は作るもの」、それから「(世間の)みんなを(落研の)部員にしていけば」というくだり。ご自身は少し前のインタビューで、エレキコミックのことを「街の小さな優良企業だ」と評していました。ビジネスの観点から「芸人」という人生を捉え直しているのかな、という印象を抱いたのですが、やついさんの仕事観とは。

 仕事観……。「道具論」というか、パッと見て、どういうひとか、どういうキャラクターなのかがわからないと、使ってもらえないよ、ってよく言われました。「パッと見」でどういうひとかわからせる。それが「タレント業」というものだ、と。それで最初、そうやろうかな、と思ったけど、やっぱり、自分がそれに向いていない。零れ落ちるものがあるんですよ。「明るくてスケベ」ってキャラクターがいたとしますよね。でも、人間って「それだけのひと」っていない。存在しない。でも「タレント性」というのは、要はつくられたもので、裏に何があるのかをナシにして、そこ(表面)だけが求められる。そこを伸ばし、さも「そういうひと」に見えるようにする、ってことなんです。いまは「裏側を見せる」というのもあるのだろうけど、元々はそうだったと思うんですよ。

――「レッテル」ですね。

 そうです。ラクだからそれはそれで良い。だけど、本当は違うじゃないですか。スケベなひとにも真面目なところがあるし、真面目なひとにもスケベなところがある。「こういうひと」っていうようなカテゴライズ自体が、そんなに……。でも、カテゴライズされる自分をつくることこそが技術。すごく優れた方もいらっしゃるけど、僕はうまくできない。ちょっとやってみたけど……。

――でも、いまのやついさんには、音楽家や俳優という別の個性・魅力も備わっています。

 ただ、僕を見た瞬間に、音楽がすごく好きという感じではなかったと思うんですよ。「バカバカしい」とか「馬鹿」とか、そういうのを求められがちだった。若手芸人だし、チャレンジして良いリアクションをしてくれ、とか。

――汗をかけ、と。

 そうそう。グラビアアイドルが出てきたら、「ウホー」って言ってくれ、とか。でも、「ウホー」と思うひともいれば思わないひともいる。いろんなひとがいるのに、「カテゴライズされた何か」を求められるわけですよ。自分もそう振る舞おうと思ったこともあったけど、本当に上手なひとには勝てない。それで、「自分を売り込むことを他人に任せない」と決めたんです。製品は僕。製品を卸すのも僕で、僕という製品は僕が一番理解している。「じつは音楽に詳しいんだ」、それなら、そういう(音楽に関連した)仕事を自分で獲ってきて、自分でやる。そんなふうにシフトしてきたんです。

――ミュージシャンとして活躍し、ジャンルレスのフェスも主宰していますよね。本書で描かれた大学の4年間でも、お笑いに熱い一方で、どこか冷静に、自分の立ち位置、当時の相方の力量を見極めていて、「客観視のできるひとだな」という印象を抱きました。それから、大学卒業の時、「後進部員がちゃんと育っているから、安心だ」と思ったという場面。いま、より若手世代の芸人について思うことはありますか。吉本興業の問題もあり、芸人の仕事観、生き方について関心が集まった時期であると思うんです。

 僕自身が思うことは……、まったくないです。まったくない(笑)。当時は「落研」というものが「全部、自分」っていうイメージでやっていたんですよね。他人事じゃない。それが良い方向に行った。他人事だと思うと全部面白くなくなっちゃう性格なんです。「全部、自分のこと」と思ってやってみると、わりと頑張れるんです。だから、「どれだけ他人事じゃなくするか」っていうのが大事だと思う。

――カバーのイラストは、江口寿史さんが手掛けていらっしゃいますね。

 (編集者には)「写真を」って最初言われたけど、それは嫌だった。出たくなかったんですけど、自分の話だから自分にしたほうが、というので、「じゃあ、絵のほうがまだマシ」ということで。『グミ・チョコレート・パイン』って本が好きだったんですけど、大槻ケンヂさん。青春時代に読んでいて。あれはやっぱり、大槻さんが筋肉少女帯になるまでの話なので、要するに「それのお笑い版だな」と。だから、オマージュも込めて江口さんに描いてもらいたいなと。

――そうか、「グミ・チョコ」のカバーも江口さんでしたよね。大槻さんの自伝的小説。

 頼んだら、オッケーしてくれて。「男を描くって珍しい」って言っていましたね。江口さんとはお会いしていないんですよ。Twitterでやり取りしただけで。何でオッケーしてくれたのか、断られてもおかしくなかったと思うんですけど。ありがたかったですね。

――いま、学生生活を送っているひと、それから、人生の指針をどうするか迷っているひとたちに、伝えたいことは。

 ヘンに醒めずに、全部コミットしていくと面白いと思います。やっぱ、体験するのが一番僕は好きなんですよ。「見る」のと「やる」のとでは違う。全部、やってみる。あとで恥ずかしい思いをするかも知れないけれど、全部財産になると思うんで。

 この本には凄い人数の芸人の名前が出てくるけれど、ラーメンズとか一部を除いて、殆どはいま、お笑いをやっていないわけですよ。でも、こうしてコンビ名を1個1個書いていても、なんか、面白い。なんか、歴史書を書いている気持ちになるというか。

――「ラ・呼吸困難」「ジ・アンチョビー」「ブギウギ小川」……。それにしても、よくこんなに当時の芸人の名前を覚えていましたね。

 これらのコンビは全部実在したんです。本を読んでくれたひとがSNSで、「自分のコンビ名が書いてあって嬉しかった」って。社会に出て45歳ぐらいで、そこそこ何か(の役職)になっている彼が、「『〇〇〇〇』ってグループだった」って言うわけですよ。「これ、俺なんだよ」って。

――でも、ちょっと嬉しいかも知れない。

 だからこそSNSに書いてくれたんだと思うんです。本に書かなかったらただ無くなっていくものですから。「そういうの、良いなあ」と思いました。興味に向かって、コミットしておくと、後々どういう人生を送っていようが、財産になるって思う。社会的な目を恐れずに、好きなことをしてやっていけば良い。僕はそう思っているんです。