戦後一〇年、一九五五年岐阜県に生まれた私。社会全体は高度経済成長の波に乗り、東京オリンピックも終えた、そんな小学四、五年の頃。住む町は山と川と田んぼしかなかったが、それは少年には充分な環境だった。
秋、稲刈りも済んだ田んぼが広がっている。「そっちに行ったぞー!」「来た、来た!」「あ、戻った!」。蜂の子採りである。大の大人が数人、無我夢中で蜂を追う。追うのはクロスズメバチ、方言でヘボと呼んだ。地中に巣を作る蜂で、あの恐ろしい黄色のスズメバチとは違う。体長二センチ弱ほどの白黒の縞(しま)模様の肉食の蜂である。
この巣を探り出し、幼虫やサナギを甘辛く煮付けて食べる。当時の食料としての動物性たんぱく質は、ニワトリ、ブタ、コイ、アユ、野鳥、そしてヘボといった程度で、牛肉はまだまだ後の食材である。ただ、ヘボはきわめて美味(おい)しい。甘露煮が一般的だが、炊き込みご飯もある。まー、旨(うま)い。甘く、濃い滋養分が口の中に広がる。酒の肴(さかな)にももってこいだ。
少年の私は、カエルやオイカワを捕まえたり、釣ったりし、ヘボの餌を調達する。それを開き、木の枝に縛り付け見張る。やがて匂いを嗅ぎつけたヘボが、プーンとやってくる。目の前で、その白身の餌をついばみ、一心不乱で肉団子を作っていく。「おとうちゃーん、来た!」。父や、叔父が駆け寄ってくると、制作中の肉団子にそっと、真綿のこよりを忍ばせる。
やがて、ヘボが団子を持ち去る。真綿の目印がひらひらと空を飛ぶ。田んぼを渡り、アカマツの幹の脇をすり抜け、ススキの土手を越え、飛んでいく。必死で追いかける大人たち。見失うことも当然ある。だから必死に追う。灌木(かんぼく)の枝が顔に跳ねる。擦り傷をこしらえながら、とにかく真綿を凝視し、転びながら、追い詰める。モソモソと地面に消えていくヘボ…。にんまり。
後日、掘り出す。セルロイドの筆箱や下敷きが父から没収される。これに火を付け、巣穴に煙を送り、いぶり出す。苦しくなった蜂が這(は)いだし転がる。何層にもなった蜂の巣を掘り出したら、ヤッホー! 歓声が秋の野原に轟(とどろ)く。
娘がまだ五歳の何の先入観もない頃、周りの大人と同じようにヘボを食べていた。地の名物、ほう葉寿司(ずし)がある。卵焼きや、キャラブキ、しめ鯖(さば)、時雨煮などを乗せた、いわゆるちらし寿司を新緑のホウの葉で包んだものだ。スーパーで購入した時に、「このおすし、ヘボがはいってない」とだめだし。祖母が作ってくれたそれには、飴(あめ)色に光るヘボが入っていた。=朝日新聞2019年10月5日掲載