歴史学者の藤木久志さんが亡くなった。多くの同輩や後進に惜しまれる中での急逝だった。
新潟県生まれ。英語を学ぼうとして進学した新潟大学で、当時まだ20代で後に一向一揆の研究で知られることになる中世史研究者の井上鋭夫(としお)さんと出会い、中世の人々の姿が浮かび上がる研究にひかれて、歴史学に足を踏み入れた。
親交が深く、「一時期は同じ団地で暮らした」研究仲間でもあった峰岸純夫・東京都立大学名誉教授(日本中世史)は、その業績を「中近世の過渡期にあたる戦国時代を対象に一般の人々に焦点をあてた点が特筆される」と評する。
中でも戦国期の戦場は百姓たちにとって、食料確保の場であり、そこでは「人取り」と呼ばれる奴隷狩りや人身売買が日常的に行われていたことを指摘した『雑兵たちの戦場』(1995年、2005年新版)は衝撃的だった。
義将と呼ばれた上杉謙信が越後からたびたび関東に出兵したのも、正義のためというより、農閑期の出稼ぎが目的で、背後には、寒冷化が進み、たびたび飢饉(ききん)に襲われていた当時の社会情勢があったと説いた。
一方、略奪される側の村々も自衛を試みた。『戦国の村を行く』(1997年)では、自前の城を持って軍勢の来襲時はそこにこもり、自らも武力を持って他の村と連携しながら生き抜こうとした戦国時代の人々の姿を描き出した。
さらに『刀狩り』(2005年)では、豊臣秀吉による1588年の刀狩令などについて、本質は武装解除ではなく、戦う武家の奉公人と戦わない百姓という兵農の差別化であり、民衆が武器を封印した根底には、長く厳しい戦国の世を経験した当時の人々の平和の希求があったと訴えた。
このような藤木さんの説には批判もあった。しかし、それまで大名研究が中心だった戦国時代史に、村落やそこに暮らす百姓の視点を持ち込んだ斬新さと、緻密(ちみつ)な分析力は他に類を見ないものだったと言える。
歴史を研究する意味について、朝日新聞の2010年のインタビューで「若い学生たちを教える時も、一人ひとりが歴史をいまつくっている主体なのだということを分かってほしかった」と語り、歴史学は現代と直結する学問であるとの立場を主張し続けた。
現在を読み解き、そこに関わり、私たちが生き抜くツールとしての歴史学。戦争の記憶が遠のく令和を迎えた今、藤木さんの言葉の意味をもう一度考えてみたい。(編集委員・宮代栄一)=朝日新聞2019年10月9日掲載