「なんでこんなことに」と頭を抱えることがある。自業自得、身から出た錆。そんな言葉も頭をよぎる。「なにもこんなときに」というタイミングで、歯車は狂い出すものなのだろう。
7月某日、渋谷で2件の打ち合わせと、2件の電話打ち合わせを終えた夜。やっと作業できる――といつものファミレスでパソコンを開いたら、急に涙が止まらなくなった。
27歳の女がひとり泣きじゃくっている。確実にやばい。訳がわからない。でも大丈夫、前にも何度かあったことだし、そのうち落ち着くだろう。はじめはそう思っていた。
「はーはー」とファンの壊れたような音がする。耳障りだ。自分の呼吸か? けれど変だ。コントロールできずに、どんどん早くなる。空気が足りない。喉が狭まり苦しくなる。お腹になんともいえない不快感が渦巻き、痙攣して、激しく酸素を求めた。水面から必死に口をパクパクさせる金魚みたい。
顔がグシャグシャなので、ドリンクバーにもレジにも行けそうにない。私のできることは、ツルツルのボックス席に張りついて、ただ呼吸を荒げること。乾いていくアボカドサラダの隅のエビが、涙越しに心臓の鼓動で揺れて見えた。一体何をしに来たのか。ちょっと笑えた。
その日から、身体の反応に振り回される日々がはじまった。「頑張らなくては」と思えば涙が止まらなくなり、メールチェックなどのちょっとした緊張で過呼吸を連発する。同時に人混みが怖くなった。一人の外出や作業が難しいため、仕事を遅らせるなどし、一時的にメールの返信も代筆をお願いすることになった。
少し症状が安定しはじめた頃、「せめて今日やることを書き出そう」とペンを握った途端、動悸がして過呼吸になった。書くことしか能がない自分が、まさかペンも握れなくなるとは。再び笑うしかなかった。
ショックだったのは、18歳からほぼ毎日欠かさず書いている詩のノートが、数週間分も真っ白なのを開いて確かめたとき。私はだいぶ前から本調子ではなかったのだ。
作家が作家の仕事をできないなんて、生きてないのと一緒。そう思い、毎日悔しかった。
そのうち100均の白いノートに絵を描いてみるようになった。シャープペンシルをやわく握り、お茶を入れたグラスをデッサンする。季節外れの炬燵の上で、腕に顔をのせたり、頬杖をついたり、安心する姿勢を探りながら、グラスの影を素描していく。絵のそばに、感じたことをそのまま書く。「水出しジャスミン茶」。アホみたいだが、ちょっぴり気も晴れてきた。
そういえば、名前も目的もない、こんなひとときが私は好きだった。14歳の頃、友達に借りたアルバムを自分のCDに焼いて、アルバムサイズに切った紙に、歌詞を書き写した。余白に、思い思いの挿絵もつけた。自分仕様のジャケットのつもりで。
美しい歌詞が自分の字で並んでいるのを見ると、新しい世界に触れた歓びが身体を駆け巡った。現代詩と出会う前、スピッツの草野マサムネや、くるりの岸田繁が、私の詩の先生だった。
それとは別に、記憶によぎる一曲がある。TBSドラマ「3年B組金八先生」第7シリーズ。2004年に放送された本シリーズの題材は「薬物依存」。生徒の〈丸山しゅう〉が、家庭環境と進学に悩み、覚せい剤に溺れていく様をHey! Say! JUMPの八乙女光が熱演した。
13歳の私は、毎週このドラマに釘付けだった。苛烈な物語に対し、挿入歌は、〈しゅう〉の孤独な運命を包むような、柔らかい曲調のものが多かった。
特に刺さった一曲が、熊木杏里が歌う「私をたどる物語」だ。
〈さあ鉛筆しっかり 握りしめ 私という字を 書くのです〉というサビ冒頭の歌詞が、思春期の少年少女たちへの芯の強いメッセージとなっている。ささやくような、けれど凛とした熊木さんの歌声に魅了された。
「私をたどる物語」の詞を聴いていると、どこか心がソワソワする。1番では父を憎む少年、2番で母を嫌う少女が描かれ、共に親への憎しみを吐露する。そんな彼らに、歌の語り手はこう語りかける。
〈だけどやっぱり きみが悪いよ 自分を隠しているからさ〉
〈だけどやっぱり きみはちがうよ そしたらきみはいなくなる〉
安易に共感し、肯定してみせたりはしない。繊細な苛立ちを持て余す彼らに、「きみが悪いよ」なんて告げたら、怒ったり傷ついたりしてしまいそうだ。
しかし語り手は、その強い「否定」により、きみをきみ自身に向き合わせようとするのだ。
私の人生から、「私」を消すことはできない。どんなに身も心もボロボロに傷ついて、「もう自分を離れてしまおうか」と傍観者を決め込んでも、この物語から「私」は消えない。
ならば、鉛筆を握りしめ、「私」を書くしかない。自分から逃げないための対抗手段として。私は「私」へ語りかけながら、不器用でダメダメな「私」なりの生き方を学んでいく。それがこの曲の結論ではないかと思う。
年齢を重ねるごとに〈きみはちがうよ〉という歌声は重く響く。自分の在り方を疑い、心の中で「ちがうよ」と言える勇気を失わずにいたい。
体調を崩して1週間が過ぎた頃、詩のノートの執筆を再開することができた。夢中でペンを走らせていたら、久しく会っていない懐かしい自分と再会したような心地がした。
言葉を失ってから取り戻すまでの日々を忘れない、と心に念じた。私がペンと共に握りしめていたものは、命綱のようにつかまっていたそれは、「私」自身にほかならなかった。
先日、実家に休養も兼ねて帰省した。70歳になった母は最近、私の幼少期の頃の話をよくする。「読み聞かせの本とCDを与えたら、教えてもいないのに、あんたはひらがなが読めるようになった」という(そこは教えるところじゃないのか)。「ただ、字を書くことはできなかったのよねえ」(だから教えてよ)。
それでも私はめげずに、母の目を盗んでは、母の手帳のメモ欄に〇や×、奇怪なひらがなモドキや創作漢字をびっしり書き込んでいたらしい。狂ってる。4歳にして「書く」ことへの執着がハンパではない。
そして実のところ、今の私も変わらない。鞄には手帳と、大きさの違う数冊のノートを常備。ページの端から端まで、字で埋めないと気が済まないたちだ。
28歳を迎えた。物心つく前から・物心ついて以降も、私はずっと「書きたい、残したい、伝えたい」と焦り続けてきたように思う。
そこへ「生きていきたい」をそっと書き加えたい自分がいる。軽い薬に頼りながら日々を繋いで、やっとそんなことを願えるようになった。
私は「私」へ呼びかける。言葉を奪われたら歌えばいい。意味に疲れたら踊ればいい。弱さの奥に輝く強さもある。あなたの生きる力を信じているからと。