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「戦前反戦発言大全」髙井ホアンさんインタビュー 落書きや投書に残された戦時下の庶民の本音

文:和田靜香 写真:北原千恵美

 パラパラとページをめくり、たまたま目に入った一文に大きく頷いてしまう。
忠義を尽くして死んで金鵄勲章を貰えば何になるか、戦争なんか馬鹿のすることだ
 昭和13年5月、宮崎県で45才の男性が乗合自動車中で発したもので、言ったこの人は禁錮4カ月の刑の処されている。

 『戦前反戦発言大全』(合同会社パブリブ)と題された600ページ近い分厚い本には、昭和12年~19年に発せられたこうした一般市民たちの反戦発言がびっしり並ぶ。この本は“戦前ホンネ発言大全”の第2巻で、第1巻は『戦前不敬発言大全』、こちらも600ページ近い。そこにも「俺も総理大臣にして見ろ、もっと上手にやって見せる」といった、一市民の言葉が並ぶ。銭湯で、食堂で、路上で、町内会の寄り合いで。様々な場所で発せられた言葉、または送られた手紙や、公衆便所の壁に書かれた言葉たちが集められ、今に当時の生きた言葉を伝えてくれるのだ。

「個人から見た戦争史」に興味

 これらを調べ、選び、編んで、解説して本を完成させたのは髙井ホアンさん。埼玉県に生まれ育ち、母親はパラグアイ人。大学ではカリブ史を学んだ。なんと、まだ25歳の若者だ。

「元々僕は小さい頃に祖父母から戦争の話をよく聞かされていました。祖父は海軍航空隊の訓練生で山陰の基地にいたんですが、物資の不足の中で機体に触れないまま終戦を迎えました。祖母は岩手の国民学校の生徒で、『盛岡駅の裏にガスの施設があって空襲にあって、この辺りは焼野原になった』とか、何度も繰り返して同じ話を聞きました。自分はこういう話を直接聞ける多分最後の世代だと、何となくわかっていました。それで教科書で知る“上から見た戦争史”とは違う、“個人から見た戦争史”に小さいときから漠然と興味というか、関心があったんです」

 そうした関心の素地には青少年時代に培われた、反骨精神がある。

「虐められたこともありましたが、やり返す方だし体格も大きかったので、中学、高校になるとそういうこともなくなりました。でも、日本の社会の中にいて、自分はハーフでいつも狭間にいるような気持ちで、他の人とは別の方向を見て興味を持つ、という気持ちがしていました」

 大学に入学した頃にツイッターを始めると、「戦前の不敬・反戦発言Bot」を開設した。最初は本やインターネットから面白そうな発言を集めて載せる程度で、そんなに読まれるとは思わなかった。それが、始めて2~3カ月もするとどんどんフォロワーがつき、知りたいという人がこんなに大勢いるのか!と驚き本格的に調べ始め、近所の図書館に戦前の特高警察の内部月報「特高月報」をまとめたものの復刻版を見つけた。そこから自分が面白いと思う物を見つけてはbotで紹介していった。

「始めた頃は戦争が苦しい、辛い、というよりも色々と下品な表現とかもあるんでそれを笑ってインパクト重視で載せていました。『伸ばすな国力、殖やせ犯罪』とかスローガンをもじったものをうまいなぁと思ったり。ツイッターで最初にすごく反応が大きかったのが『資本家の手先となった新聞、ラヂオ、映画等で外国が悪い様に宣伝して戦争をしかけるそして利益は自分等が取る戦地で死ぬのは誰だ、国家の為だのやれ忠義だのとおだてられて機関銃の的となる農民労働者よ』という広島の駅の共同便所に書かれていた落書きです。これは昭和12年(1937年)8月で、日中戦争の引き金となった盧溝橋事件の1か月後です。『特高月報』それ自体は昭和5年の分から昭和19年分まで今も残っていて、共産主義者、宗教、植民地支配を受けて居た朝鮮・台湾人、水平運動など当時のあらゆる社会運動への監視記録がされています。その中で、昭和12年7月から『左翼分子の反戦的策動』として庶民の発言がまとめて収められるようになりました」

戦時下の便所の落書きは今のツイッター

 ホアンさんは庶民の発言一つ一つを面白がりながらも、これは深刻なテーマだということが常に頭にあった。

「特高月報にある事例には便所の落書きが多く見られます。政治、戦争、労働環境への不満、本音はそこに落書きするしかないんです。落書き同士でコミュニケーションが行われていたらしきところも見受けられて面白いんですが、もちろん同時に問題意識を共有しています。『便所ハ我等ノ伝言板ナリ有効二使エ』と昭和14年、岡山県の工場の便所に落書きされています。便所の落書きが今のツイッターなんです。忘れちゃいけないのは、こういう落書きも密告や監視で特高警察に伝わります。落書きでは書いた人は特定されづらいですが、列車の中や食堂、色んな場所での発言は密告され、8~9割が捕まり、なんらかの弾圧を受けているんです。もちろん冤罪なんかも多くあります」

 そうした冤罪例などもコラムにきっちりまとめて本に収録されている。ホアンさん、専門の研究者でもないあなたが、どうしてここまで調べて書くのですか?

「始めた時は興味本位な部分もありましたが、次第に、現代に通じるいろいろな怖さ、歪さに惹かれていきました。読んだ人によって受け取り方は違うでしょうが、ここに発言が載っている人たちは一番閉塞した時代に生きた人たちです。無謀にも国家が海外へ武力で突っ込んで行き、苦しんで足掻いた人たちです。そういう行き詰った時代の人たちがどういう姿勢を取るのか?という一つの参考になると思うんです。独裁や、一つの考え方に固執する社会では、それに反する意見は顧みられなくなり、密告され、罰せられ、封じ込められる。今にも通じますよね。あいつを黙らせろって。最近では問題のある発言が炎上するのじゃなく、そいつを黙らせるために炎上させるのも増えている。この本で言えば不穏発言をした、のと同じで、お前は不穏だから捕まえるぞ!ってことです。物言う自由がなくなるのは恐ろしい。自由は大切なんだよ!って僕は言いたいんです」

 「特高月報」を読み進めていく中でホアンさんがのめり込んでいく理由の一つが、当時の社会批判が都会に住む一部のインテリによるものではなく、工場で働く労働者などは勿論、地方の農民たちや主婦など、ごく普通の人が多いことだった。

「反戦発言は東北や中国地方など、日中戦争が始まってから徴兵され、トラクターもない時代に馬や牛を取られてしまう地方の農家の人たちが寄り合いなどで苦しみを吐露する形で多くされました。たとえば『我々農民の一番困ることは軍馬の徴発である、農家ではこの忙しい時に兵隊には取られるし頼りとする馬も徴発され仕事をするに大支障がある、自分は馬を二頭安い値で取られたが後馬を買うにも買えず仕事が出来ない。とにかく戦争は早く終って貰いたいと念願して居る。もう戦争は嫌になった』と、昭和14年2月に北海道の65歳の男性が農業組合の事務所で発言しています。本当に庶民、普通の人たちなんです」

庶民は冷静に戦況を見ていた

 ホアンさんが教えてくれた発言の1つに、83歳の老婆が戸口調査で訪ねてきた若い巡査に「戦争はいつまで続くんじゃろうか、早く戦争が止まんと人が死ぬる、私はそれが耐えがたい、戦争はせん方がいい、戦争をしたちうても何の得があるやら私にはさっぱり判らん。巡査さんは戦争には出ん方がいいぜ、出たら死んでしまう」と心配して言っただけで検挙されて「厳重諭示」された例もある。なんと狂った世の中だったろう、と判る。

「それと、今では昭和の戦争というと戦争末期のB29が飛んで来て焼夷弾を落として、という『火垂るの墓』のようなイメージでしょうけど、実際は十五年戦争といって1931年の満州事変から日本はずっとほぼ戦争状態ですから。37年の日中戦争から本格的に戦時体制となり、39年の第二次世界大戦、40年の日独伊三カ国同盟締結、41年の太平洋戦争と、ずっと対外侵出と戦争を軸に国が動いていた。有名な共産党だけではなく、学校も宗教も政府に統制されるようになった。昭和12年(1937年)、日中戦争が始まってすぐの時点で『戦争をするのは馬鹿だ、学校で勉強しても戦争する様な事では何の役にも立たぬ、戦争すれば日本人は困るばかりだ国民は苦しい目に逢うばかりだ、大体総理大臣が悪い、戦争をする様な総理大臣や陸軍大臣は殺して仕舞え』と激しい言葉を言う人もいます。でこの人は駅で応召軍人とその見送り5~60名の前で絶叫して逮捕され、20日間も勾留されています。ずっと戦争で、ずっと自由に物が言えない社会だったんです」

東京・新宿の書店「模索舎」で
東京・新宿の書店「模索舎」で

 話を伺っていて、段々と息苦しい気持ちになった。

「そうした長い戦争の時代にあって、庶民は冷静に戦況を見ているんですね。『戦争を止めさえすれば皆んなそう苦しまんでもよくなる。個人あってこそ国家があるので個人が立行かぬ様になっては国家もその存立を失う。個人が本当の幸福を得世界中の者が皆んな同じ様に仲良くして行くことが出来れば国家など言うものはあってもなくても良い。戦争に負けたら敵が上陸して日本人を皆殺しにすると宣伝して居るが、それは戦争を続ける為に軍部や財閥が国民を騙して言うことで自分は米英がその様な残虐なことをするとは信ぜられん』というのは、誠にもっともだと思います」

 これは昭和19年の発言。戦争末期になってくると、こうした発言が増える。「米国人の奴隷になった方が余程よい」(昭和19年5月、多摩の徴用工)、「日本は神国なりと言うも悪徳と敗戦とを重ねるのみ。東条首相は時局担当の器に非ず」(昭和19年7月、北海道での投書)等々。教科書では「欲しがりません、勝つまでは」といった威勢のいいスローガンで挙国一致していたかのように習った。当時の人はなんでおとなしかったんだろう?と思っていたが、そうではなかったんだ。

「そうなんです。そういう当たり前のことが知られていない。私が参考にした『特高月報』なんて極端に触れにくい秘蔵の資料ではなく、少なくとも国会図書館などで見ることができるものなのですが、埋もれてしまっている。天皇などに関連する生々しい記述など今でも扱いづらい心理があるのかも知れませんが。ただ戦前の人々の姿は広まるべきで、僕はそれを知らせたいと思っています」

 庶民の発言は戦争の時代の生きた記録であり、訴えてくるものは本当に大きい。ちなみに私の胸にズシンと来たのは高松市の22歳の女性が昭和12年に友人にあてた手紙だ。

毎日の様に子供が『お父さんは何時帰るの』と聞かれる時の私の切なさよ。『拝んでみたら帰るよ』と言ったら毎日の様に拝み『お父さん帰らないなア』と私に泣きつかれる時の切なさよ

 若い女性が戦死した夫に帰って来てほしいと書いたら、それが摘発された。どんな処分に遭ったかは書かれてないが、氏名が特定されているということは、彼女も何かしらの弾圧を受けたのだろう。夫が戦死し、幼子を抱え、悲しむことさえ許されない。逮捕され、なじられ、もしかしたら暴行され、周囲からは非国民と罵られたかもしれない。配給の食料を廻してもらえず、辛い目に遭ったかもしれない。

 この発言集から見えてくるのはそうした戦争の本当の姿だ。戦争は何も勇ましく雄々しいものなどでなく、卑劣で不条理で最低の最低。何があっても二度とそれを繰り返してはいけない、そう強く、強く思わせてくれた。