父に代わる権力
11月末公開のトルコの巨匠ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督の最新映画「読まれなかった小説」は、父と息子の物語だ。小説家になる夢を実現できず鬱屈(うっくつ)を抱える息子は、競馬で借金を重ねて母を困らせる小学校教諭の父に反感を覚える。だが、退職後の生活を着々と準備しながら地方都市で満ち足りた様子で日々を過ごす父の生き方に惹(ひ)かれてもいる。
この美しく切ない映画において、強い印象を残すのは「井戸」だ。父は、その父(主人公の祖父)の手を借りて丘陵地に井戸を掘り、その疲れから眠りこけて蟻(あり)まみれになる。映画の最後では、井戸のなかに幻視的光景が現れて僕たちは息をのむ。
やはりトルコを代表するノーベル賞作家オルハン・パムクの『赤い髪の女』(宮下遼訳、早川書房)を読んで驚いた。この小説の主題も父と息子の関係であり、しかもなんと「井戸」が物語の展開に決定的な役割を果たしているのだ。
主人公のジェムの父は、ある日突然失踪する。革命運動に関与したために投獄された経験もある父である。そのせいなのか?
優しい父の不在を悲しむ息子。小説家志望(!)のジェムは古本屋に入り浸り、予備校の学費を稼ごうとイスタンブル郊外の土地で井戸掘りのアルバイトをする。そこで彼は人生を大きく変える二人の人物と出会う。父代わりの存在となる井戸掘り名人のマフムト親方。そして一目見た瞬間から心を奪われる年上の謎めいた美しい「赤い髪の女」。
さすがは希代の語り部パムク。現代トルコに生きる父と息子の物語が、ギリシア悲劇(父を殺して母と同衾〈どうきん〉するオイディプス王の物語)とイランの国民的叙事詩(『王書』における父の息子殺しの物語)に重ねられ、井戸での出来事をきっかけに急展開を見せる。そしてやはり結末近くに井戸で事件が起きる……。
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ジェイランの映画でもパムクの小説でも〈父〉は、世界に意味を与えるにせよ与え損ねるにせよ、存在感が大きい。近代的な〈個〉の確立が〈父的なもの〉の支配からの解放とセットで考えられているからか。
抑圧する権力が〈父的なもの〉として可視化されているのなら、反発し、抵抗し、打ち倒すこともできるだろう。だが、いま〈個〉の自律性を阻害し、僕たちの日々を息苦しくしているのは、ネット空間に蔓延(まんえん)するつかみどころのない匿名の悪意なのではないか。
そのことを不穏な迫力とともに描き出すのが、米国のニック・ドルナソのグラフィック・ノベル(文学的漫画)『サブリナ』(藤井光訳、早川書房)である。
空軍に勤めるカルヴィンを友人のテディが訪れる。テディが意気消沈しているのは、恋人のサブリナが行方不明だからだ。
そのサブリナが殺害され、惨事を録画した映像がネットに流出すると、ネット上には流言飛語が増殖していく。殺人はフェイクであり、これは残忍な事件で人々の恐怖を煽(あお)り立て、支配を強固にしようとする国家権力の策謀なのだという〈陰謀説〉が、ネットやラジオでまことしやかに、かつ狂信的な口調で語られる。
悪意や憎悪を運ぶウイルスのような〈声〉から遠ざかることがいかに困難な時代に僕たちは生きていることか。テディもカルヴィンも次第に精神のバランスを崩していく。
人形よろしく無表情な人物たちの顔は、不意にアップになるときでさえ喜怒哀楽を読み取りがたい。その彼らの心象風景なのか、無機質な風景を描くコマが目立つ。ときには台詞(せりふ)のないコマが連続するのに、なぜか読むのにひどく時間がかかる。
しかし、余白を読者が自らの思考で埋めることを求めるドルナソの描き方はまさしく、作品がそのおぞましさを際立たせているものから、つまり、わかりやすいが故に真実を見えなくする〈陰謀説〉のような物語類型や容易に真反対の感情に転化する共感から、僕たちを守ってくれる。
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『サブリナ』からにじみ出すのが、現代という時代を隈(くま)なく覆い尽くす茫漠(ぼうばく)たる喪失感だとしたら、小川洋子の新作『小箱』(朝日新聞出版)を満たす喪失感は気密性のガラスケースに収められている。
その世界は、人間が存続し続けるために決して失ってはならない小さな存在=子どもたちを失っている。
しかしその喪失が悪夢にならないのは、残された者たちが思い出し続けるからだ。忘却に抗する記憶のアートが、「小箱」のかたちで静かに優しく差し出されている。=朝日新聞2019年10月30日掲載