試金石はスプモーニ
柔道という競技は向き合った瞬間、その間合いで自分より強い、弱い、ということが感覚としてわかるという。
“組み合った瞬間”ではなく、“向き合った瞬間”ってところに魂と魂の闘い、という感じがして痺れる。
婚活心理カウンセラーで友人の谷本由紀さんによると、婚活は格闘技に似ているという。特に一対一のお見合いでは向き合った瞬間、相手の戦闘力がわかる。ここでの戦闘力というのはトーク力で勝てばいいとか、弱い相手を見下すといったものではなく、頭の回転やコミュニケーション能力、適切な間合いをとれるか否か。魅力的な人になるためには、つまり、魅力があると感じる人と互角の試合をするためには、己の戦闘力をあげることが必要なのだ。
その昔、谷本さん自身が婚活で出会った男性と食事に行ったときのこと。谷本さんは自身の好きなカクテル、スプモーニを注文。なにを頼もうかいつまでも迷っている男性に、「〇〇さんもスプモーニどうですか」と促すと、「ああ、あれでしょ、ちょっとあまい…」と、あきらかなしったかぶりをしてきたという。(谷本さんいわく、スプモーニはほろ苦くさわやかな味が魅力だそう)
ここで本当に必要な戦闘力とは、”恋愛経験の豊富さを匂わせる“ということではない。
たとえば、「おしゃれなお店に縁がなくて…スプモーニって、どんなの?」と素直に聞く、“可愛げ”なんじゃないか。
これは、スプモーニという試金石で相手の戦闘力を計るという、谷本さんオリジナルの高度な技だ。
今回取り上げる『重版出来!』の主人公・黒沢心は、女子柔道オリンピック強化選手の経歴をもつ。そのモットーは柔道の指針、精力善用、自他共栄。
泣くも笑うも常に自分以外の人のため、というのは人格者だが、マンガの主人公としては弱くなりそうに思う。
しかし、アクの強い漫画家たちが多数登場する作品のなかでときには脇役にもなれる(適切な間合いをとれる)、最強に戦闘力の強い人物だ。
たとえば、主人公・心のこんな言葉。
今回初めて知りました。自分の手にする単行本は、たくさんの人たちの手を渡って届いているんだって。「作品」であり「商品」であり「想い」なんだって。
嫌われても憎まれても、言うべきことは言わせてもらいます!作品を守ることは先生を守ることです。このネームを通したら、読者が、がっかりします。私が担当である以上、先生の信頼に絶対に傷をつけさせません!!
私も柔道の試合で判定で泣くこともありましたし。試合の場合はそれコミでの勝負なんですけど、反則スレスレの技で試合に勝っても、本当は自分には負けてるんです。力を尽くしていれば必ず別の形で何かが得られると思うんですが…
東江さんにしか描けない世界 東江さんの漫画。通勤中に読む 休憩中に読む 寝る前に読む。みんなに読んでほしい―― みんなに楽しい時間を過ごしてほしい。
いつの間にか、私も心と一緒に、心が想う人を想って泣いていた。
他者に対するこんなにまっすぐであたたかい向き合い方があろうか。
黒沢心というキャラクターは、全身全霊で作品と向き合う松田先生の“心”そのものを体現しているようにも感じるのだ。
先生がこのような組み手(攻防の際の、相手の道着の掴み方に関わる柔道の技術)を使えるまでに至るには、7年に渡るアシスタント生活と長い漫画家生活で積み上げてきた、“かくも長き死闘編”『重版出来!』3集のおまけ漫画「裏重版」参照)があったのだ。
先生は主人公とその他の登場人物の間合い、登場人物と作品の間合い、作品と読者の間合いまでもを感覚でわかっておられ、互いを五分の組み手のようにがっしりとつかませる。
『重版出来!』13集。心が担当している新人漫画家・東江絹は漫画を描きながら働いていた会社から、単行本を出すなら会社を辞めるよう宣告され葛藤の末、自ら辞表を提出する。単行本発売に際して著者インタビューを受けるシーンがこちら。
ああいつもあなたは海だアルメリアわたしのために両手を伸ばす
これは、絹が心を想って詠んだ短歌。
アルメリアは「海に」という意味のケルト語を語源とし、海岸に自生している。花言葉は「思いやり」「共感」。 私はアルメリアを見ると、海のようにどんなことがあっても変わらずそこにいて、おおきく抱きとめてくれる心を思い出す。
先生が描いているのは「人間」だ。
それぞれの感情や事情があってそのキャラクターが動いている。
世の中には、真の善人も悪人も存在しない。
生きた「人間」を生み出すためにペン一本でまっさらな紙に向き合い続ける、そのどこまでも真摯な姿勢が登場人物の表情1つ1つから伝わってくる。
長期連載を続け、今なおファンを増やし続ける『重版出来!』。
2020年2月『重版出来!』14集発売日に居酒屋で14集を開きつつ、スプモーニのほろ苦さを味わってみようと思う私であります。