ほんとうの物語
詩だ、と思った。
『ダルちゃん』は、ほんとうのことをうたっているまばゆい詩だ。
社会のなかで“普通”でいるため、ダルダル星人のダルちゃんは24歳のOLに擬態する。
ジェンダーや障害、男女平等などの問題をひっくるめて、いや、飛び越えて、この物語は詩として、“普通の人なんてこの世に一人もいない”という、たったひとつのほんとうのことを呼びかけてくれている。
余談だが、前回ご紹介させていただいた『タラレBar』の東村アキコ先生のマンガにははるな檸檬先生が、はるな先生のマンガには東村先生が時折登場する。お互いをこんな風に見てるんだ!というのが知れて、どちらの先生も好きな私には大変興味深い。(はるな先生、金髪だったの?!)
小学4年生のころからだろうか。友達とたわいない話をしていても、いつも気を遣ってしゃべるようになっていた。
誰かに嫌われたとか、怖いなと思う子がいたとかいうわけではない。いま振り返ると、思春期に入り、自分を意識しすぎるようになったというのが大きな要因だろう。
学校にいると、うまく息ができない。うまく笑わなくちゃ、うまく笑え!うまく笑…えない。苦しい、苦しいよ。
そんなとき、本屋さんで漫画雑誌の「りぼん」に出会った。
「りぼん」にでてくる漫画の主人公たちも周りに合わせたり、自分の本当の心を隠すために噓をつく。けれど、モノローグのなかで、彼女たちはいつもほんとうのことを言っていた。
(※モノローグ…ふきだしの中に入らない、登場人物の心の声)
たとえば、『天使なんかじゃない』(矢沢あい)の冴島翠のモノローグ 。
もう大丈夫 ヒロコがどこの誰でも たとえ彼女でも 負けないくらいあたしは幸せ この学園の中で手に入れたスペシャルな毎日が めそめそしてたらもったいないよ
そして、『こどものおもちゃ』(小花美穂)の倉田紗南のモノローグ 。
私は…きっと…本当は みんなに思われてるほど 強くはない… …だけど… …頑張らないわけには いかない…!!
涙が溢れた。
わたしもほんとうは翠ちゃんみたいに思ってる。紗南ちゃんのように感じてる。
息苦しくなったときは、「りぼん」の主人公たちのモノローグを、誰もいない屋上で、学校のトイレで、何度も唱えた。
そうすることでわたしはようやく呼吸ができるようになった。
憧れの主人公たちの心の声が、わたしのお守りになっていたのだ。
中学生になり、教室の窓から夏を見上げ、渡り廊下で冬に吹かれながら、次第にこう思うようになっていった。
わたしも誰かの心にまっすぐ届くような、ほんとうのことを書いた物語をつくりたい。
ダルちゃんは、職場の先輩であるサトウさんから借りた詩集をこんな風に表現している。
(ちなみに、この詩集のモデルになったのは、歌人・笹井宏之さんの歌集『えーえんとくちから』なんですと。短歌だったんだ!)
そうしてダルちゃんは、溢れだす自分を世界に注ぐように自分で詩を書きはじめる。
そこには、ダルちゃん自身の生きたことばが綴られていた。
はるな先生はウェブサイト「サイゾーウーマン」2018年12月6日掲載のインタビュー記事でこう語る。
成長って、何かを足すことではないと思っています。「成長=何か荷物を持たなければ、何か付加価値をつけなければできないこと」だと思いがちですが、実は荷物を捨てることだったりするんじゃないのかな
と。
短歌もそうだ。
短歌は三十一音の詩だ。三十一音のなかに余分な言葉はないかを見極め、削り、いかに研ぎ澄まされた美しい一首にするか。足さなくていい。求めなくていい。ほんとうに好きなものを見極めて、そのほかのものはそぎ落とす。そうすれば、自分のままを肯定できる。
そうして立ち上がった一首は、ダルちゃんの言葉を借りれば、“ことばの一つ一つが輝いて見える”。
サトウさん、同僚のスギタさん、それから恋人のヒロセくん。いろんな人に出会い、詩に出会い、自分で詩を書いていくなかで、ダルちゃんは気づく。
私を幸せにするのは私しかいないの
詩を、短歌を紡ぐことは、ときにこの世に生きる息苦しさを吐き出すことだ。
自分の心と向き合うことは、ときに痛みを伴う。しかし、詠み続けることで、次第に自分が癒やされていることに気づくだろう。
五・七・五・七・七という型は、どんな自分も受け止めくれる。社会と闘う頑なな心を解きほぐしてくれる。
はるな先生は、“生きづらさを抱えて生きていいんだよ。自分の心に耳を傾けてあげて”と言ってくれているように感じる。
この美しい詩を読んで、自分とちゃんと目を合わせて頷けるひとが増えたらいいな。
この空の下に生きるたくさんのダルちゃんへ。
あたたかな星を抱いてわたしたちひとりひとりで光をみてる