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江戸文学研究・中野三敏さんを悼む ロバート・キャンベルさん(日本文学研究者)寄稿

中野三敏さん(左)とロバート キャンベルさん=1987年撮影、キャンベルさん提供

近世の文人たち、蝶のごとく観察

 江戸文学研究の第一人者で文化勲章受章者の中野三敏先生は11月末、都内の病院で亡くなられた。享年84歳。葬儀はアメリカ文学が専門で大学教員を務める長男が喪主で、教え子たちも駆けつけることができた。長男をわたくしは13歳の時から知っている。

 戦中佐賀の温泉旅館で育った先生は虫を捕ることがとても好きであった。捕るコツを母親から教わり、長男には昆虫採集の喜びを自ら分け与えたという。長男が中一の時、先生は専門店に連れてゆき、捕虫網や標本制作用の器具などを買い揃(そろ)え、やがてドイツ箱という本格的な標本ディスプレイに羽色の美しい蝶(ちょう)を整然と並べ飾ることを教えたらしい。三十数年前にわたくしがはじめて先生のお宅にお邪魔したとき、清楚(せいそ)なツマキチョウやひらひらしたイシガキチョウや絢爛(けんらん)たるカラスアゲハなどが空中に静止したかの如(ごと)くリビングに居並んでいた。

 人間に向けた好奇心も蝶に対するそれに似たものがあった。先生は若い時分から前人が顧みないが江戸中期の学芸界で強烈な個性を放ち、社会の片隅から人々の生への飽くなき欲求と行動を見つめる文人たちの軌跡を追っていた。生涯、江戸時代に「自己の内にある本当の人間性を追求しようと図った」20人ばかりの「ユマニスト」(『近世新畸〈き〉人伝』〔77年〕)を、まるで鋭利なピンセットで摘(つま)み上げ全方向から丁寧かつ温かく観察する姿勢で伝記にまとめた。そうして18世紀日本の「近世的自我」(『江戸狂者伝』〔07年〕)を掘り起こし、思想と言語文化の歴史を書き替(か)えることに成功した。

 稀代(きだい)の和本コレクターでもあった。選び取られ整理されたデータよりも当時の人々が書き継ぎ読み継がせた書籍の原本から採取できる知見と感性を掬(すく)い取ることに終始した。かつて20代で日本に到着したばかりの留学生に向かってこう言われた。「和本は百点ほど見て回ればよろしい。そうすればその分野で必ずものが言える立場になるから見てきなさい」と。笑いながら、そう告げたのであった。

 柔らかな糸綴(と)じの和本を片手に淀(よど)みなく語る先生の講義は、遠い江戸の地を目と耳で旅するような豊かな追体験をもたらしてくれた。

 わたくしはこの頃『書誌学談義 江戸の板本』(95年)という瀟洒(しょうしゃ)な一冊を机の上に置いている。江戸期に作られ、ふつうに読まれていた木版本について、その制作過程から形態や分類法等を分かりやすく説いた上で、一冊を形づくる部位を表紙から裏表紙まで丁寧に並べて解説した本である。先生の一生の想(おも)いが、淡々と並べられているようで美しい。(寄稿)