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大西巨人の巨編「神聖喜劇」 家族が資料を寄託し、見えてきた創作過程 

書けない心中の苦しさを吐露したメモ

短編を企図 章題追記の跡

 大西の小説第一作は1949年刊、『精神の氷点』。その後、スランプに陥った50年ごろに書いたとみられるメモが見つかった。電気スタンドと一冊の本が描かれた落書きの周りに、妻に宛て「美智子よ/君は眠つているか/生活の重みにおしひしがれようとしながら(中略)負けまい負けまい/いつか必ずこの原稿残に私の心がしぼり出すまことの文字で埋まるだろう」などと走り書きされている。

 デビュー作の刊行前から「神聖喜劇」の題名での構想があったことが明らかになった。48年、批評家の荒正人からの手紙に「『神聖喜劇抄』のことは(一回に掲載のこと)は我儘(わがまま)とは思ひません」と言及されている。

 実際に『神聖喜劇』の執筆を始めたのは55年。当初は作品の一部を、独立した短編として発表しようと考え、編集者にも見せていたようだ。題名は「最初の小波瀾(はらん)」。同年、妻・美智子さんの手記には「一四〇枚。われらのすべての運命はこれにかかっている」と悲壮な覚悟が記されていた。その1カ月後、文芸誌「群像」の編集者から「御作拝見しましたが(中略)どうしても独立して発表するものでないと思いましたので、本日別便書面にて御送り致しました」と断りの手紙が届く。

 『神聖喜劇』はその後、本人の予想を超えて膨らんでいった。「一九七二年二月新整理」と記された「執筆覚え書き」には、後半の章題が並ぶ中、合間に追記された章題があった。また、挿話の項目が番号を振って並べられ、「スミ」と書いていたり「止」と書いていたりした。「止」は採用しなかったエピソードとみられる。終盤の山場である「模擬死刑の午後」は、覚え書きでは「擬似死刑」。まだ書いていない部分についての構想が流動的で、執筆の終盤に固まったことをうかがわせる。

 78年に執筆された「奥書き」で「約四千枚」と書いていたが、2年後の校正で「七百」の文字がそこに加筆された。二松学舎大の山口直孝教授(近代日本文学)は、「書き継ぐ中で中盤以降がふくらんでいったことや、書籍化に際し、既発表部分も変容していったことがわかる。作っていく過程で、かなり試行錯誤がされている。別の結末の可能性があったことを感じさせた」と話す。

 90年、大西は朝日新聞で、評論家・吉本隆明の「ひとつの書物はその内容によって劇的であるだけでなく、その成立の経緯によって劇的である」という言葉を引き、「『神聖喜劇』に即しても、まったく同感同意する。(中略)この作が『その成立の経緯によって劇的である』ことの委細をこそ、私は、語らなければならなかったのであり、語らなければならないのである」と述べている。

 資料は同大付属図書館資料センターに保管され、目録や年譜の整備など、さらなる研究が進められる予定だ。(興野優平)

企画展で一部を公開

 二松学舎大学に寄託された資料は、『神聖喜劇』『地獄変相奏鳴曲』やエッセーの原稿など約8千枚、蔵書約1万1千冊など。未発表小説の原稿も2作あった。
 3月14日まで、同大などで資料の一部を展示する企画展「作家・大西巨人―『全力的な精進』の軌跡」を開催。2月29日には長男で作家の大西赤人さんの講演会もある。問い合わせは同大付属図書館(03・3263・6364)。=朝日新聞2020年2月5日掲載