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森泉岳土のマンガ『村上春樹の「螢」・オーウェルの「一九八四年」』 謎めいた線で浮かぶ、文学のエッセンス

『村上春樹の「螢」・オーウェルの「一九八四年」』マンガ・森泉岳土(河出書房新社)

 今月ご紹介するマンガは、森泉岳土(もりいずみたけひと)の『村上春樹の「螢」・オーウェルの「一九八四年」』です。

 森泉岳土は、世界でも稀(まれ)な方法でマンガを描く人です。大ざっぱにいえば、つまようじを使って画用紙に水で線を引き、そこに墨を垂らす、というやり方です。その結果、輪郭線をはっきりと描くことが基本である一般的なマンガとはずいぶん異なった印象の絵柄が生まれます。陰翳(いんえい)に富み、どこか焦点があいまいな、夢のような感覚が浮かびあがってくるのです。

 その点で、村上春樹の「螢」のマンガ化は成功しています。言葉にすると嫌になってしまうくらい平凡ですが、この短編の主題は、「人の心は分からない」ということだからです。原作では太字で強調された重要な一文をあえて省略して、謎めいた絵の陰翳で、人と人の埋めがたい距離を感じさせ、そのやるせない孤絶感をビタースイートな詩に昇華しています。とくに、蛍が出てくるラスト3ページは完璧な出来栄えといっていいでしょう。

 森泉岳土は、海外の文学作品をマンガ化する名手でもあって、これまでにカフカやドストエフスキーやポーをマンガにしています。なかでも、カフカの未完の最大長編『城』をわずか16ページにまとめてしまった手際にはちょっと驚かされました。

 今回は、オーウェルの『一九八四年』を72ページに圧縮していますが、あの長い小説のエッセンスをみごとに掬(すく)いあげており、感心させられます。そして、70年以上も前に書かれた小説でありながら、いまマンガとしてその核心を明快に提示することには、きわめてアクチュアルな意義があります。

 舞台は、国民の生活のすべてをテレスクリーンで監視する全体主義国家。主人公の勤める記録局は、党首の演説に合わせてすべての文書を「修正」し、それ以外の刊行物をすべて廃棄してしまいます。このようにして、一つの党が「過去」を、つまり歴史を支配するのです。まったく他人事ではありません。この党はさらには国民の記憶まで改竄(かいざん)するように迫り、国家のために個人の自由を否定するのです。

 歴史哲学者ハラリは、近著『21 Lessons』で、AI(人工知能)の情報処理能力が極限まで発達した現在、オーウェルの描いた国民の個人情報のほぼ完全な監視が実現可能だといい、ポピュリスト政治家がそれを使って「デジタル独裁国家」を作る危険に抵抗しなければならない、と主張しています。個人の自由はいま正念場を迎えているのです。(学習院大学教授)=朝日新聞2020年2月12日掲載