散歩やごはんの買い物に外へ出る。住宅街は、土日の昼間だと以前よりも人が多く、なにごともなかったんじゃないかと錯覚しそうになる。
よく見ると、飲食店はテイクアウトのみだし、休業の張り紙が出ている店も多い。連休が明けて、時間を短縮して営業を再開する店が少し増えたとはいえ、ほんの三か月前とはかなり様子が違っている。
駅ビルの英会話学校や楽器やダンスの教室もずっと閉まっている。そうか、人との距離近いもんなあ、と思う。近いし、話さなければ成り立たないし。そう思って街を見回すと、少し前まで当たり前だった光景があれこれ思い出される。人って、近い距離で生活してたのやなあ。
特に都会では人間同士の関係が希薄だとずいぶん前から言われていて、心理的な関係性と物理的な距離とはまた違うけれど、思ってたよりもずっと近かったんやな、と、それができなくなってから気づいた。満員電車や度を超えた人混みなどありがたくない近さは目立っていたけれど、それ以外のところでも、人間同士がこんなに近かったとは。
まったくの他人でさえ、狭い店で肩を並べて飲んだり食べたりし、親しい人たちとは小さなテーブルを囲んで時間も忘れて喋(しゃべ)り続けた。そんな距離の中で生きてきて、これからその距離がまた元に戻るのか、それとも以前よりはちょっと離れて当分生活しないといけないのか、わからない。今は、ふとしたことで、近かった、と思い出す。
何度かオンラインで飲み会というか、お茶会というか、複数で話した。そこには遠く外国で暮らす友人も参加して、それは今までなら話せなかったとても遠い距離を縮めるものだった。長時間話して、楽しかった。だけど、その場にいるのとは違って、全員で一つの話題になる難しさもあった。「その場にいる」ことってとても複雑で重層的なのだと思う。場所を共有する意味ってなんやろう。それは、自分が小説でずっと書き続けてきたことでもあるのだった。=朝日新聞2020年5月20日掲載