普段なにげなく使っている「障害者」や「健常者」という言葉。国立民族学博物館(大阪府)の広瀬浩二郎准教授(日本宗教史・触文化論)は違和感を持っている。このほど刊行した『触常者として生きる』(伏流社)は、社会的弱者と決めつけられ保護されるべき存在として扱われてきた障害者が現代社会に放つ、挑戦の書だ。
障害者は、多くの健常者が持っているものを持たない人々と見られがち。でも、それは違うんじゃないか、と広瀬さんは言う。「たとえば視覚障害者は触覚や聴覚が研ぎ澄まされている。視覚優先の社会ゆえに失ったもの、むしろ目が見えるゆえに気づかない世界もあるのでは。さわることで、より深く理解できるものもある」
13歳のとき失明した。各地を遍歴して「平家物語」を口伝した盲目の琵琶法師に自らをなぞらえて「琵琶を持たない琵琶法師」を自負し、一方的に障害者を弱者扱いする紋切り型の思考に疑問を突きつける。
「視覚偏重の時代を修正し、日常から障害に対する見方を変えたい。障害の視点から発信したいのです。発想の転換がなくては健常者と障害者という二項対立は克服できないし、社会も変わりません」
近年よく耳にする「ユニバーサル社会」は、誰もが楽しめる社会と説明されることが多い。広瀬さんに言わせれば、ユニバーサルとは「感覚の多様性、違いを大事にすること」である。
人類学者のレヴィ=ストロースは名著『野生の思考』で、非合理的とされてきた未開社会にも、科学的思考とは異なる独自の知が存在することを主張した。「レヴィ=ストロースのいう文明人は健常者に、未開人は障害者に置き換えることができるでしょう。多様な社会に優劣の差がないように、両者の立場にも主従の壁などありません」
では、両者がコミュニケーションを築くにはどうすればいいか。
歴史をたどれば、文字文化を擁する知識階層とは別に、読み書きを特に必要としなかった人々の社会も存在し、むしろそれが多数派だった。ならば、文字で成り立つ現代社会に、視覚を前提としない、いわば無文字社会を持ち込んでみてはどうだろう。「健常者」を「見常者」に、「視覚障害者」を「触常者」に呼びかえ、食文化ならぬ「触文化」を構築してはどうか――。そんな考えをめぐらす毎日だ。
国立民族学博物館で「ユニバーサル・ミュージアム展」の開催をめざしている。「触」の感覚を多用した、“触れる鑑賞”を提供したいそうだ。(編集委員・中村俊介)=朝日新聞2020年5月27日掲載