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「多和田語」の世界 境界も〈私〉も解き放つ星々 作家・小野正嗣〈朝日新聞文芸時評20年5月〉

平子雄一 Leaf Prints K02

 どこにも行けないので自宅で本を読む時間が増える。この機会を利用して古典に触れようと思う人も多いのではないか。

 検察庁法改正案のせいか、三権分立との絡みで近ごろ名前をよく目にするようになったモンテスキュー。一八世紀に活躍したこのフランスの思想家の名を一躍有名にした『ペルシア人の手紙』(田口卓臣訳、講談社学術文庫)の新訳が刊行された。

 ペルシア人のユズベクとリカは、知的好奇心に駆られ、故郷を離れ、フランスに向かう。滞在先のパリからこの異国の地で見聞した事柄を手紙にしたため友人たちに書き送る。

 まったく異なるフランス人の風俗習慣に驚き、政治、経済、文化を問わず社会のあらゆる領域にはびこる堕落と愚昧(ぐまい)を諷刺(ふうし)・批評しつつも、主人公たちは自国第一主義に陥ることなく、専制君主の支配する母国の政治体制の問題点を冷静に考察する。

 この小説でいちばん自由を奪われているのは、主人公ユズベクのハーレムに幽閉され、彼の部下に厳しく監視され続ける女たちだろう。だが最後の思わぬ結末が、たとえ悲劇的であれ、抵抗する女性の声を確かに届ける。優れた古典はつねに僕たちの〈今〉に応答することを痛感する。

 そもそも本書は、ペルシア人の手紙をモンテスキューがフランス語に翻訳したという体裁で書かれているわけだが、その日本語への翻訳がまことに素晴らしい。自分に宛てられた手紙であるかのように言葉がすっと頭に入ってくる。

 本書も含まれる講談社学術文庫のここ数年来の、古典的な哲学書・思想書の新訳の充実ぶりには瞠目(どうもく)するものがある。遠くに感じられていた名著との距離がぐっと近づく。日本の出版文化の底力を感じる。

     ◇

 現代の傑作もまた過去の傑作につねに応答する。「翻訳」という点に注目すると、『ペルシア人の手紙』と似た構造を持つのが、多和田葉子の『星に仄(ほの)めかされて』(講談社)だ。

 これは三部作の第二部にあたる。第一部『地球にちりばめられて』(同)と登場人物は重なるが、単独の作品として読めるようになっている。

 ドイツ語と日本語の両方で、詩や小説を書き続けている多和田であるが、この小説はどうやらそれらとは違う言語で書かれている。「クヌートは語る」という章題からも明らかなように、各章ごとに一人ひとりの人物が語るようになっている。この中で、日本人だと考えられるのは、HirukoとSusanooという人物だけだ。

 なぜアルファベット表記? どうもこの二人の生まれ育った列島はもはや地球上には存在しないからだ。二人は文字通りの〈故郷喪失者〉である。そればかりか二人の母語は消滅の危機に瀕(ひん)している。

 本書では、失語症に陥ったとおぼしきSusanooを見舞うため、その友人たち、Hirukoをはじめ、言語学徒のクヌート、グリーンランド出身のエスキモー、男性として生まれるも女性として生きる選択をしたインド人などの魅力的な人物が、コペンハーゲンの病院を訪れる。

 個々の人物の語りには、言語の音楽性や物質性に敏感な多和田らしい日本語の慣用句や同音異義語を駆使した言葉遊びがちりばめられる。『献灯使』(講談社文庫)の英訳が全米図書賞翻訳部門を受賞するなど、多和田が各国語に翻訳されていることを思い出し、こんな言葉遊び、翻訳できるのかな、と想像をたくましくした瞬間、ハッとする。

 登場人物たちのほとんどが非日本人である以上、各章の語り手はそれぞれの母語であるデンマーク語やドイツ語で語っているはずだ。つまりこの小説こそが「翻訳」なのだ。

     

 では、これほどの創造性と愉悦に溢(あふ)れる日本語に訳されるこの「原語」はどこに見出(みいだ)せるのだろうか。

 興味深いことに、本書では人物たちのアイデンティティーが入れ替わる場面がある。傑作『雪の練習生』(新潮文庫)で、人間と動物(ホッキョクグマ)との境界をやすやすと越えたこの作家の言葉は、これまで言語や国籍、人種、性差といった人々を遠ざけ分断する境界線に絡め取られることなく歩を進めてきた。本書の言葉はさらに、私たちを閉じ込め自由を奪う〈私〉という牢獄からの解放を夢見させてくれる。

 多和田葉子の言葉は、日本語でもドイツ語でもなく、地球上のどこからでも見える夜空よりも広大な言語と言語の〈あいだ〉にちりばめられた美しい星々のように輝いている。=朝日新聞2020年4月29日掲載