コロナ禍のもと、カミュの『ペスト』が世界中で読まれています。封鎖された町で疫病と戦う人々の姿が、生きる勇気と慰めを与えてくれるからでしょう。ペストという不条理との戦いがこの小説の主題ですが、ペストで苦しみ死んでいく一人の少年の挿話が忘れられません。無垢(むく)の少年の壮絶な死を看取(みと)った医師のリウーはこう叫びます。
「子どもたちが苦しめられるように創造されたこの世界を愛するなんて、私は死んでも拒否します」
罪なき子どもが苦しむこの世界は生きるに値するか、という問いはカミュが終生抱えこんだテーマでした。そして、今ここ日本で、遠いカミュの問いに呼応するかのような、美しく切実なマンガが描かれました。山本美希の『かしこくて勇気ある子ども』です。
山本美希は寡作ですが、間違いなく現代日本の最も優れたマンガ家の一人です。2013年の手塚治虫文化賞新生賞を受賞した『Sunny Sunny Ann!』は、家庭も家も持たず、車で旅する女性の孤独と誇りを晴れやかに描く作品でしたが、続く『ハウアーユー?』では、一転して、崩壊した家庭に呪縛される女性の苦難が主題になっています。正反対のアプローチですが、人間にとって家庭とは何なのかという根源的な問題が、山本美希というマンガ家の探求の底にはあるのです。
最新作『かしこくて勇気ある子ども』も、その問題から発して、新たな世界を切り開いた傑作です。
主人公は若い夫婦。共働きで、初めての子どもの妊娠を告げられ、大きな喜びに包まれます。自分たちのかしこくて勇気ある子どもが世界で活躍できるようにとその夢はふくらみます。世界で活躍する子どもを特集した雑誌には、女の子が教育を受ける権利を主張する15歳のマララ・ユスフザイの記事が載っていました。
ところが、マララがタリバンの男に銃撃されて意識不明になる事件の報道を見てから、妻の沙良のなかの何かがおかしくなり始めます。そして、出産予定日を過ぎても子どもが生まれてこないことに苛立(いらだ)った沙良は……。
色鉛筆の繊細きわまる描線は、子どもの誕生を待つ幸福の絶頂から、すべてが不安の種子となる精神の暗黒までを見事に映しだします。子どもたちはこの世界で傷つき、さらにひどい目にあうこともあるだろう。だが、事態を好転させるチャンスはある、かしこくて勇気ある子どもならば。最後の40ページの感動は、本年最高のマンガの収穫といって過言ではありません。=朝日新聞2020年7月8日掲載