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天皇に3島交代で定期便? 奈良時代にサメやスズキ、タイなどの加工品 奈文研が仮説

左から 「参河国芳図郡比莫嶋海部供奉九月料御贄佐米六斤」と書かれた木簡(長さ202ミリ、赤外線) 「参河国播豆郡篠嶋海部供奉正月料御贄参籠 々別六斤(右側) 並赤魚(左側)」と書かれた木簡(長さ348ミリ、赤外線) 「参河国播豆郡析嶋海部供奉八月料御贄佐米楚割六斤」と書かれた木簡(長さ297ミリ、赤外線)=いずれも奈良文化財研究所提供

 奈良時代には、愛知県の三河湾に浮かぶ三つの島からサメやスズキ、タイなどの海産物の加工品が、天皇へ捧げられる「贄(にえ)」として奈良の都まで運ばれていた。近年、奈良文化財研究所(奈文研)が平城宮跡などから出土した木簡を再調査し、三つの島が規則的に毎月交代で天皇に海産物を捧げるシステムが存在した可能性の高いことが分かってきた。

 奈文研の山本崇・上席研究員(日本古代史)が、この春に創刊された論文集『奈文研論叢(ろんそう)』第1号で発表した。

 奈良市の平城宮跡と平城京跡などからは1960年代から、「参河(みかわ)国播豆(はず)(芳豆、芳図)郡」で始まる佐久島(さくしま)(析嶋〈さくしま〉)、篠島(しのじま)(篠嶋〈しのじま〉)と日間賀島(ひまかじま)(比莫嶋〈ひまかじま〉)の3島の名前が書かれた贄の荷札木簡116点が出土。「○月料御贄」という共通の文言とともに「須々岐(すずき)」「佐米(さめ)」「鯛(たい)」「赤魚」など魚の名前に続き、「楚割(すわやり)」(細く切って干したもの)などと記されている。

 この木簡群には、(1)贄を負担する主体が「国(こく)・郡(ぐん)・里(り)(郷〈ごう〉)」と呼ばれた律令制の地方行政組織でなく、3島を拠点とする「海部(あまべ)」という集団(2)個人名はほとんど記されない(3)貢進年は1例を除いて記されない、という特徴がみられる。海部は、律令制度が飛鳥時代後半に導入される以前に、大王(天皇)家や豪族に隷属し、海産物の貢進や海上交通などに従事した労働集団とされ、このような古い方式が用いられたらしい。

 これまでの学説では「析嶋は偶数月、篠嶋は奇数月に貢進し、それ以外に比莫嶋の担当や例外もあった」などと理解されてきた。だが、山本さんが木簡群を再検討し、聖武(しょうむ)天皇が在位した天平年間(729~749年)ごろには、閏(うるう)月も含めて析嶋と篠嶋が規則的に毎月交互に貢進した可能性の高いことが分かってきた。比莫嶋の木簡の年代はさらに古いとみられ、聖武天皇が皇太子になった714年をきっかけに、3島による毎月交代の貢進が始まり、途中から析嶋と篠嶋の2島交代に制度が変わったとみる仮説を唱えた。

 制度変更の理由について、山本さんは奈良時代初めの717年ごろに地方行政制度である国・郡・里制が改変されたことに注目する。「里」の上に「郷」を置いた「郷里制」が創設され、比莫嶋が篠嶋郷に編入されたため、2島交代制度に変わったと推測する。

 山本さんは「木簡研究のごく早い段階から注目され、多くの先学によって議論されてきたテーマに矛盾のない説明を与えることができた」と話す。(塚本和人)=朝日新聞2020年7月8日掲載